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秋の空のように学ぶ

 青空を白くすっと切るような、自然に目を流してくれるような文章を書きたいといつも思っているのだけれども、実際に書いてみたら、ドブ川に沈殿している泥を薄汚れたアスファルトにべたべたと塗り付けたような、重苦しくて鈍った文章であることがあまりにも多い。すっと通るような言葉が出てこなくて、ごてごてとこね回してから書いたり、あるいは書いているうちにこね回してしまう結果になって、いろんな余計な情報が付加された結果、白い雲のイメージが黒ずんだ泥になり変っている。要するに、雑文にせよ研究にせよ、あまりに多くの情報が頭の中でぎゅうぎゅうづめになっており、上手に切り分けられていかないせいで、混濁しているのだ。だからねばねばした泥のようになっていて、しかも濁って見にくいのである。私は本質的には言葉を嫌い、概念をそのまま概念として残すべく、できるだけ言葉を通じないように使って抽象化しておきたい人間なのだけれども、他方では厳密に定義しないとすっきりしないようなところもあって、「詩人は評論を書くべし」と言って後年にはほとんどエッセイストに変貌してしまった萩原朔太郎の境地にも従って、きちんと論を立てたうえで文章を象徴化すべきだと思ったりもするので、できれば論理的な説明力を鍛えておきたいのである。詩的言語と評論的言語を縦横無尽に伝えられるようになりたい。しかし思うようにはなかなかいかない。秋の空模様は移ろいやすいのである。

 そんなことを、まさに秋晴れというに相応しい濁りのない青空を見ながら考えつつ、久々に神保町の古本街に出かけた。折しも神田古本まつりの時期であって、外国人も数年前と比較しても多く見かけるようになった。観光客が連れ立っているのも何組か見かけたし、いかにもインテリといった感じの、髭もじゃに黒縁眼鏡、禿頭でスーツを着た西洋紳士が、江戸情緒あふれる美術画を買っていたのも見た。書物にまっしぐらの中高年のおじさんが、ずかずかと押しのけて入ってくるのは昔からの変らない景色で、若いカップルや女性同士で連れ立って来ている姿もたくさん見かけた。「古本まつり」というとおり、祭りの様相を呈していたわけである。私はもちろんいつも通り、酔人の千鳥足のごとく、独りで小さく波間に翻弄されていた。

 私の家は神保町が近いので、わざわざそんな時機にこまごまと古書を漁る必要はないのだが、最近は時間にも体力にも余裕がなくて、せっかく来たからにはと貧乏性を発揮し、結局2時間以上物色していた。端から端まで歩くだけでそれくらいの時間を要するのである。混雑をかき分けつつ、いくつかの本を購入した。そのうちの一冊に、『本居宣長「うひ山ぶみ」全訳注』があった。宣長の「うひ山ぶみ」というのは、「古事記伝」の執筆を終えたばかりの宣長が、弟子たちに請われて書いた初学者向けの古学の入門書であるが、学問の心構えを説くことから始まっている。その場所に以下のように書かれていて、晩学の人間としては少しく勇気づけられた。

 又、晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外、功をなすことあり。又、暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも功をなすもの也。
 されば、才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇になきやによりて、思ひくづをれて止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるるは、学問に大きにきらふ事ぞかし。


(現代口語訳)
 晩学の人でも、つとめ励めば、意外な成果を出すことがある。勉強する時間がないと言っている人も、案外、時間のある人よりも成果をあげることがある。
 であるから、才能がないとか、出発が遅かっただとか、時間がないとか、そういうことでもって、途中でやめてしまってはいけない。とにもかくにも、努力さえすれば出来るものと心得るべきである。諦め挫折することが、学問にはいちばんいけないのだ。

白石良夫『本居宣長「うひ山ぶみ」全訳注』

 「うひ山ぶみ」が書かれたのは、先に述べたとおり畢生の大作「古事記伝」が完成した直後(同年)、1798年のことだったという。学びというものは遅く始めたとしても、才能がなかったとしても、続けることが重要だという宣長の励ましをありがたく思うと同時に、宣長の時代から、勉強する時間がないと言い訳をする人がいると書かれているのは興味深い発見である。私自身も普段、時間がない時間がないと言って言い訳している人間であるので、こうした言い訳じみた「学び」の感覚をもった同胞が出てきたのはいつからのことなのかと気になる。学ぶ時間がないのは労働しているからか、別の用事があるせいかわからないが、ともかく江戸時代の人間でも、学びより優先せねばならない事柄が多くあったわけである。労働と読書との関係といえば、若い評論家の方が書かれた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が、近代の社会構造と絡めて労働と読書の関係を論じたとのことで少し前に話題になっていたが、読めてはいない。





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