
目崎徳衛『出家遁世:超俗と俗の相克』を読む
目崎徳衛『出家遁世:超俗と俗の相克』(中公新書、1976年)は、遁世者のさまざまなあり方を紹介したものである。
歴史書である『今鏡』に記された遁世者の系譜が紹介される。
藤原氏の栄華が絶頂に達した十世紀から十一世紀にかけて、意外なほど一門のエリートの遁世が相継いだことがわかる。その原因はさまざまに想像されるが、要は一門の発展の裏面でくりかえされる醜悪な争いを嫌悪し、また現世の栄華が結局は槿花一朝の夢にすぎないことを痛感する青年の感傷が、ストレートに遁世に直結してしまったのである。
興味ふかいことに、こうした純真無垢の道心は、摂関家のエネルギーが下降に向かう院政期にはかえって見られなくなる。その時期の歴史をつづった『今鏡』が貴族遁世者の系譜を回顧したのも、「昔こそ盛りなる人のかやうなるは聞こえ給ひしが、近き世には、かかる人も聞こえ給はぬ」点に感慨をもよおしたためなのである。たとえば戦前に非合法の革命運動に走る者が、衣食に困らぬ中流以上の階級の子弟から多く出たのと同様に、この場合も、何不自由なく育ち前途を保証された者がかえってその境遇を後ろめたく思い、遮二無二脱出を企てたのであって、今も昔も変わらぬ屈折した青年心理のあらわれであろう。虚飾に満ちた栄華の空しさを、彼らはその遁世によって暴露したのである。
慶滋保胤『日本往生極楽記』や鎮源『法華験記』には、官途から出家した事例はあまり書かれていないように、摂関機には、中下級の官人層には世棄ての流行は及んでいなかった。しかし、院政期の大江匡房『続本朝往生伝』は、大江の近親者の事例を拾い、また三善為康『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』は、匡房や三善自身、同時代人の類例を多く拾っている。保胤は「勧学会」という集まりを催した。これは仏教と文学を融合させようとした試みだった。ちなみに幸田露伴『連環記』は保胤のことを書いた小説である。
往生伝というジャンルはどうも念仏の功徳によって出現した奇瑞を説こうとするあまりに、きれい事、絵空事に堕したうらみがある。そして決然たる出家遁走に至るまでの悪業や苦悩などには眼もくれず、むしろ在俗のまま一心不乱に浄土を観想したり唱名に励んだりした殊勝な所業に、賛嘆の眼を向けている。つまり法然や親鸞などが切実に問題とした罪業の自覚は、まったく関心に上っていないのである。これを社会史的にみれば、王朝貴族社会が崩壊の兆しはみえながらも頽廃的な繁栄をまだ維持しつづけ、したがって中・下級官人層の生活も根底から脅かされるに至っていない、過渡期の状況を反映するのであろう。
仏教的な修行を目的として遁世した人だでけではない。「数寄」の遁世者というのも存在する。たとえば鴨長明『発心集』にいわれるように「人の交をこのまず、身の沈めるをも愁へず、花の咲き散るを哀しみ、月の出で入るを思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにも染まぬを事とす」
また、能因法師は、出家はしたが寺院に籠って修行した形跡もなく、仏教思想をテーマとした作品もない。歌道のプロとなるために方便として出家遁世の形をとったにすぎない。陸奥に名所や歌枕を訪ねて旅した。
また、旅といえば、諸国を遍歴する遁世者というカテゴリーもある。
『三外往生記』に記録された行空沙門は住居を定めず旅行に人生を捧げていたという。同じ場所に再び宿泊しなかったことから、「一宿聖人」と呼ばれた。
『梁塵秘抄』には、「聖の好むもの、木の節、鹿角、鹿の皮、蓑笠、錫杖木欒子、火打笥、岩屋の苔の表」と書かれており、有名な空也上人の姿を連想させる。空也は夜ごと窓辺に来て慰めてもらった鹿が撃ち殺されたのをあわれに思って、その鹿の皮と角をもらい受けて身にまとっていたという。また、行円という僧は一年中鹿の皮をまとっていたことから、「皮聖」と呼ばれた。性空という僧は、日向国や筑紫の背振山などを移り住んだ。和泉式部はこの僧と結縁して、「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照せ山の端の月」を詠んだ。
また、人格を慕われて人が集まってくると、それを嫌って逃げるパターンもあった。たとえば山階寺貫首の真範僧正は、里人たちがありがたがって教えを乞いに来たり、慕われて贈り物をもらったり、集まってきて祈られたりするのを三度も逃げて、最後は大和三輪山のふもとで眠るように終わったという。
よく知られた鴨長明は、数寄に暮らした人で、大原に草庵を結んだものの、そこは仏道修行の場であったため居心地が悪く、日野山に移った。日野の方丈で阿弥陀の絵像と法華経、二三の書物と楽器のみを共に生活した。四季折々の風俗に親しみ、心の向くときには読経・念仏するが、倦めばおのずと怠る。昼は十歳の童を連れて山歩きを楽しみ、静かな夜には窓の月に故人を偲ぶ。そして、「われ、身の為にむすべり、人のためにつくらず」と言いきった。なぜなら当世には友とすべき者もなく、信頼すべき使用人もいない。「只、糸竹・花月を友とせんにはしかじ」人間と断絶して自然と融合しようとする、長明はかたくなな数寄の遁世者だった。
我々はしばしば、この世の全てを放擲してどこかに消えてしまいたいという思いを抱えるものだが、歴史を顧みるに、一言に遁世とか隠者とか言ってもそのありようは様々である。