そろばんに弾かれた浪漫
生きることは難しい。
はじめて、仕事を休んだ。
何かが自分の中で「危ない」と白旗を挙げた。
高校生の頃、野球部で試合に出れなかった私は
スタメンの選手たちが
惜しみなく活躍できる環境づくりに尽力した。
ホームランを打ったり、
剛速球を投げたりすることはできなくても
「誰かのために一生懸命に役割を果たす人」は
誰かにとってのヒーローになれると信じた。
その信念は私自身の今を作っている。
そして高校卒業後も「誰かのため」が
私の大きな原動力であり続けている。
大学生になってから取り組んだアルバイトも
就活支援の活動も「誰かのため」に
熱狂的に取り組んだ。
もらった「ありがとう」という言葉たちは
「全然いいよ!気にすんな!」と言いながら
今でも大切に抱きしめている。
社会人になり、学習塾の教室長になった。
社員は教室には私1人しかいない。
仕方がないことだが会社の中では
誰の目にも見える売上以外は評価されない。
「あの子が宿題をやってきた!」とか
「あの子今日は自分から挨拶した!」とか
「あのバイトの子が授業上手くなった!」とか「あのバイトの子、話し相手見つけた!」とか、日々の小さな萌芽は、芽生えたことすら
分かち合うことができていない。
仕事を休む事態に陥る直前、
目の前で輝いていた小さくも大きな感動を
石ころのように蹴とばし始めてしまった。
本当の私は、目の前にいる誰かが喜んでくれて
小さな一歩を踏み出す瞬間に立ち会うことが
どんな大衆娯楽よりも大好きだが
その気持ちを大切にして働くことは、
資本主義経済において「浪漫と算盤」
という汎用性の高い殺し文句に弾き飛ばされる。
他教室の先生たちは
「何とかしたいけどもう諦めた」と言う。
それも一つの正解だとも思うが
私は妥協することができなかった。
そして眠れなくなり、食欲を失い、
出社が近づきスーツを身にまとうと
暑くもないのに汗が止まらなくなった。
限界だった。
仕事を休んだ私は
悪友とも腐れ縁とも呼べる親友と
母校の校庭から星空を眺めた。
彼は語った。
「人の数だけ正義があって
正義の数だけ誰かと衝突する。
だけど正義には必ず根拠があり、背景がある。」
誰かと意見が食い違う時、
お互いが自分は正しいと思い込んでいると
それは討論になり、勝ち負けが生じる。
だけど、その人の背景を知ろうとして
それがこの人なりの思いやりであると
気がつくことができれば、
もっと優しい今がやってくる気がした。
一度は目を逸らしてしまった今と
もう一度向き合ってみようと思えた。
そして私は翌日、仕事に行った。
出社するとすぐに上司から電話が来た。
私の本音と今後の視座を話すと
「こんな考え方で生徒や講師や社員を
見てくれる新人に出会ったことがない。
これからも一緒に働かせてください」
と涙ながらに応えてくださった。
沈みきった社員の顔に、
少しでも笑顔を取り戻したい。
そして大人が楽しそうに働く顔を
教室にいるアルバイトや生徒に見せたい。
それが何よりもワクワクする未来である。
今は胸を張って言うことができる。
生きていることが、大好きだ。