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ポテンシャルを発揮するだけでは自信は得られないのです。

先日の記事に書いた友人とはまた別の友人と久しぶりに会った。

彼は中学校1年生のときに初めて同じクラスになって、そこから中学生活ではよく一緒に過ごした仲間の1人である。中学卒業後は数年おきに1回程度の頻度で会っていたのだが、私が大学院に入ってからは全く会わなくなってしまったので、今回が約5年ぶりだということが発覚した。

久しぶりに近況報告を交わすと、彼は5年間勤めた勤務先をこの4月から変え、転職するらしいことがわかった。

大学生活の頃のできごとも含めて、その決意に至った背景などについても話を聞いたのだが、彼について私がすごいと思ったところは、一定の努力をした結果何かを達成する経験をしたことで、すでに簡単には揺るがない自信を得ている、ということだった。

学部時代に学んでいた専門分野とは全く異なる分野で就職するために、目標を設定して勉強し、本当にそれを実現したらしい。

私は彼をリスペクトせずにはいられなかった。

その後も彼と話す中で、私はある認識に到達した。いや、本当は気づいていて、それに目を背けていた、と言う方が正しいかもしれない。

それは、やっぱり自分には達成経験が足りなかった、ということだ。

ここでの達成経験とは、単に何か大きな仕事をやる、という意味ではない。自分が後天的に何かの能力や資質を意識的に身につけて、それによって何かを成し遂げた、という実感のことを言う。

私にはそれが不足していたから、いつまで経っても自信を得ることができなかったのだ。

言い換えると、これまで私はずっと、元々あったポテンシャルを元に、自分ができそうだと思ったことはその能力を外挿して引き延ばして対応し、できなそうなことはほとんど、あるいは全くやらないで生きてきた、ということだ。

その生き方を続けているにも関わらず、博士課程を修了して学位が取れる(見込みである)ということは、客観的に見れば普通よりは能力が高いと判定されるのかもしれない。

それでも、自分としてはこれではいけないと思っている。自分が自分に自信を持ち、「これができる人間だ」と胸を張って生きていくためには、このプロセスを踏まなければいけないからだ。

私は思わず彼に聞いた。

「何か目標を決めて頑張っているとき、その目標が自分の中で揺らいだときはどう考えていた?」

何事にも疑り深い私は、自分が定めた目標が正しかったのかどうか、かなり頻繁に問い直してしまうから、中期的に努力するのが苦手なのだ。

彼はこう言った。

「俺は、一度決めたら目標を疑うことは無かったよ」

それを言われたら元も子もないなぁ、と思いつつ、重要な気づきを与えてくれた彼に感謝したいと思った。

これからも仲良くしてください。

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ともやの思考整理note
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