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「やってみた」と「できた」を繰り返す人生は味気ないのです。
先日、人生とは「やったことがないことをやってみること」を繰り返すことによって形成されるのではないか、と書いた。
その記事を改めて読み直してみて、確かに自分はこの数年で、そういう思考に到達したような気がする。
元々は、何か1つのことに情熱を注ぐような人間ではなかったし、どれか1つを選ぶということが苦手な優柔不断な人間だった。
だから、例えば学部時代の講義スケジュールは、基本は自分の興味をベースとし、なるべく隙間なく取れるだけ取る、というように考えて実行していたし、研究室に入った後も、見学会や講演会などに参加できる機会があるのだったら、興味のあるなしに関係なくとりあえず参加する、というスタンスでいた。
また、学会発表や論文投稿などについても、自分がそんなことをするようになることなど昔は全く想像していなかったが、経験として何回か取り組んできた。
そうやって、自分自身の興味の幅をあえて狭めずに、自分にとってのコスト(金銭や時間も含む総合的な意味で)が低いのであれば、なるべく経験としてやってみようと思ってこれまでの人生を生きてきた。
このような人生を振り返って、それが自分としてどう感じたかを言語化すると、「とりあえずやってみた」⇒「とりあえずできた」の連続だった、という感じになる。
これを周りの人に説明すると、取り組んでいることのレベルは年齢が進むにつれて徐々に上がっているから、「優秀なんだね」とか、「能力が高いんだね」とか言われることが多い。
しかし、私としてはこの感覚が健全であるのかと言われると、そうではない気がしている。なぜなら、その取り組んできたことが心底楽しいかと問われると、そうではないからだ。
新たな環境で何かに取り組み始めるときや、何かの仕事を任されるとき、楽しいかどうかはやってみないとわからないだろうから、ととりあえずやってみると、「おー、おれにもできたー」となって、少しの充実感を得られることは確かにある。
しかし、それにずっと取り組みたいとか、熱中できるほど楽しいと思ったことはほとんど無かった。
このように、「やってみたらできるのだけど、充実感は小さい」という感覚を常に抱えることの悩みを理解してくれる人は少ない。
だから、何かに情熱的に取り組んでいる人にはいつも憧れる。
自分が何かに取り組んでも心の底から楽しかったり喜んだりできないのはなぜか、と考えた結果、今のところの理解としては、目的や目標の解像度が粗いことと、その達成への執着が無いことが関係しているのではないか、と思う。
おそらく私にとっては、「何かを経験すること」自体が目的になっていて、それを「うまくやること」とか、「もっと良くすること」に対しては大きなこだわりが無いことから、目標を達成することによって本来得られるはずの充実感が得られていないのではないか、と思うのだ。
だとすると、私はこの先、一体何から充実感を得ながら、長くて暇な人生を生きていかなければならないのだろうか。
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