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『マイスモールランド』で、「映画のショット」と「小説の言葉」を考えた。

はじめに

映画『マイスモールランド』を5月の末に劇場で観た。
ここ数年で観た邦画ではベストといっていいほどよかった。

この映画は「日本の難民受け入れ制度」の問題を提起している。
埼玉県に住むクルド人の女子高生を主役とする物語であり、家族が在留資格を失ったことによる苦難や葛藤が描かれている。
ただし、「作品で提起される社会問題の重要性と作品そのもののクオリティには、直接の関係はない」と僕は考えるので、この記事はその社会問題について論じるものではない。

YouTubeにアップされている公式動画「『マイスモールランド』 特別映像」では、この映画は「1人の少女のアイデンティティーをめぐる物語。」との惹句が与えられている。これがこの映画のテーマであるといっても、外れてはいないだろう。

YouTube「『マイスモールランド』特別映像」より

ただし、僕の映画の見方は「テーマ至上主義」でもなく、強いて言えば「優れたショットがあるかどうか」が、好きな映画かどうかの一番の基準になる。「ショットとは何か?」と質問をされても答えに窮してしまうので、それを深く理解したい方は、蓮實重彦の近刊である書籍『ショットとは何か』 をお読みいただきたいが、シンプルな定義としては、同書では(蓮實ではなく編者によってだが)、

「単一のキャメラによって連続撮影された、切れ目のない一続きの画面」
「視覚でとらえることのできる映画の最小単位で、言語における単語のような役割を担う」

蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社) P.6

と説明されている。

ともあれ、僕がこの映画を高く評価した理由は「とても優れた、心を揺さぶられたショットがいくつかあった」ことに尽きる。(それらのショットについては後で触れる)

そして、この映画を観た直後に、そのシナリオが雑誌『シナリオ 2022年6月号』に掲載されていること、監督である川和田恵真の手による小説(ノベライゼーション)が出版されていることを知った。
同一の作者による「シナリオ・映画・小説」を見比べることができるのもあまりない機会だと思い、雑誌『シナリオ』と書籍『マイスモールランド』を買い求め、それらについての批評を(無謀にも)試みようと思った。

まず最初は、「シナリオ・映画・小説」の相違点を中心に、整理していく。原稿の性質上、一定のネタバレは避け得ないので、未視聴・未読の方はその旨ご承知おきいただきたい。
また、「映画」については劇場での鑑賞時の記憶を頼りに書いており*、ディテールについては不正確な個所もあるかもしれない。その点もご容赦願いたい。〈*2022年8月14日、期間限定配信で本編を視聴し、その上で記憶違いによる2か所程度の大きな誤りは修正を施した。〉

1.「シナリオ」と「映画」の相違点

雑誌『シナリオ』に掲載された「シナリオ」については、同誌に寄せられた川和田の文章によれば、「撮影前に書いた稿」であり、「(シナリオと映画で)違いがあるところは現場か、編集で変更した」ということだ。

この「シナリオ」は若い俳優たちとのワークショップなどによって、彼・彼女らの本来の性格や趣味なども加味した上での最終稿とのことであり、「映画」との違いは多くない*。(*ただし配信で確認したところ、いくつかのシーンの順番が変更されていた)

「シナリオ」にはあるが「映画」では削除されている箇所として、僕が気づいた主な点は以下のエピソードやシーンになる。

アーリンの「オーディション」

「妹のアーリンが、アイドルのオーディションに応募しようとしてその写真を弟のロビンに撮らせている。そこで使う化粧品を買うために、サーリャが貯めていたバイト代を、アーリンが勝手に使っていた」。その小さなエピソードが「映画」では削られている。(#55)
また、それに関連して、「サーリャがパパ活からアパートに戻ってからのアーリンとの会話」でも、オーディションに関する言及は削られている。(#69)

「母親的な役割を求められる長女」と「反抗期の妹」の関係を表す小さなエピソードだが、ここが「映画」でカットされているのは、物語の冗長性や輻輳性を嫌った川和田監督の、作劇技術的な判断と思われる。

姉妹の関係、長女サーリャの母親的役割への妹からの反抗については、軽い姉妹喧嘩の中での妹アーリンの「うるさいなあ。親にでもなったつもりかよ」というセリフ(#44)が、「映画」に残されてはいるが、あまり深く触れられてはいない。

「カードの穴」から覗くロビン

この物語の中でも極めて重い意味を持ち、大きな転換点となるシーンが、「主人公家族が出入国管理局で難民申請を『不認定』とされ、在留カードに穴あけパンチで穴があけられる」シーン(#18)だろう。

CINRA (https://www.cinra.net/article/202205-mysmallland_iktaycl)

それに続く、「レインボーブリッジが見える道」のシークエンス(#19)での最終シーンが「映画」からは削除されていた。そこはト書きには「(弟の)ロビンは、カードの穴から景色を覗いている。振り返り、姉の方に向けると姉が小さな穴の中にいるみたい。」と書かれており、もし挿入されていれば非常にシンボリックな映像になった可能性もあるが、「分かりやすすぎる(いわゆる“ベタ“すぎる)」ゆえに採用しなかったのかもしれない。(あるいは単にパンチ穴の大きさなどの物理的な条件により監督の思った画像にならなかったという可能性もある)

2.「映画」と「小説」の相違点

ここからは、「映画」と「小説」の相違点について述べる。

まず最初に、一般的な表現形式としての映画と小説の違いに触れておく。
当たり前だが、まずは映画と小説の違いは「映像や音の有無」である。
そして長さの制限の有無も違いの一つになる。小説は原理的には「文字数(枚数)の制限」はないが、映画には「時間の制限」がある。これは主に興行形態、つまりビジネス的な側面や観客側の集中力への配慮によるもので、一般的には多くの映画は90分から120分程度であり、長くても180分程度までが上限になる。

こうしたフォーマット的な特性から、映画という表現形式を「映画は省略の芸術である」と言うことがあるようだ。その言の適否はさてあれ、映画という表現形式において「省略の技術」が非常に重要であることは確かだろう。

また、小説であれば多くの文字数が必要になる状況や情景を、映画という表現形式は僅か何秒かの映像で表現することができる。
あるいは、小説では文字による一定の説明が必要な「場面の転換」についても、映画は、言語的な説明を一切せずに映像だけで伝える(観客に想像させる)ことができる。

この辺りは、「言語による説明」がどうしても一定程度は必要になる小説と、映画という表現形式の大きな違いになる。

これらを踏まえて、同じ作者による『マイスモールランド』の「映画」と「小説」を比べてみると、当然のことながら、「主人公の心情」「背景となる設定」などについて、「小説」のほうが圧倒的に「文字による情報量」は多い。
「小説」は主人公サーリャの一人称で書かれており、その形式からも「サーリャの心情」についての記述(言語情報)は必然的に多くなる。(川和田が「小説」の執筆にあたって一人称を選択したのは、おそらくその心情を書き込みたかったからだと想像する。)

一方、では一般的に映画の情報量は少ないのかといえば、もちろんそんなことは無い。映画は「映像」や「音」といった圧倒的に豊かな情報を持つ。

そしてそれらは、時に作者(一義的には監督)の意図を超えて、映画の魅力を作り出し、観客による多声的な解釈を生み出す。

例えば、次のような「映画論」がある。

映画には、「何を意味するのかよくわからないもの」が必ず映り込んでいるということですし、むしろ「何を意味するのかよく分からないもの」が映り込んでいることこそが映画の本質的な魅惑を作り出しているということです。

内田樹『映画の構造分析~ハリウッド映画で学べる現代思想』(文春文庫)P.49

上記は、文芸批評の領域での「テクスト論」を下敷きにした「映画論」の一節であり、「映画は、小説以上に観客の『解釈』によって織り上げられるものだ」ということを前提に、映画の魅力を「(たまたま)映り込んでしまったものにこそある」としており興味深いのだが、本稿の守備範囲を超えるので、この辺までにしておく。

「母親」~存在と省略

話を『マイスモールランド』に戻すが、「映画」と「小説」の比較においては、前項のような細かな差異を見ていくのではなく、より大きな粒度でみていく。

まず、「映画」と「小説」でもっとも大きな違いだと感じたのは「サーリャの母親」の存在である。「小説」では、サーリャの亡くなった母親は確かに「存在」するが、「映画」では、ほとんど「不在」だ。

劇場で「映画」を観たときに、「サーリャの母親」がまったく登場しないことが、少し不思議だった。
母親がすでに亡くなっている事実(設定)は、劇中で語られているし、最終盤では、母親の埋葬場所はサーリャたちが「かつて住んでいた国」にあるらしいことが明かされる。
しかし、その母親が、いつ、どこで、どのように亡くなったのか、サーリャたち家族との関係はどうだったのか、ということについては、「映画」では丁寧にそぎ落とされている。母親が日本に入国していたのかどうかも、劇中では明言はされていない*。(*正確に言えば中盤で「故郷の山に(母親の)遺体を返せてよかった」という、父マズルムのセリフもあったのだが、劇場での鑑賞時にはそこまでの状況理解はできなかった)
最終盤で明かされる母親の埋葬場所を頼りに推察すれば、「日本に来ていなかった」と受け取めそうになるが、高校生であるサーリャが小学校時代を日本で過ごしていたこと、弟のロビンが小学校低学年であることを考えると、それもやや不自然ではあり、劇場での鑑賞時には不透明なままではあった。

反面、「小説」では、サーリャの一人称を通して母親への思慕や、その関係性を表すいくつかのエピソードが丁寧に描かれている。

例えば、物語の中で象徴的に使われるヘアアイロンは、「小説」では「中学二年の頃、(母親が)お父さんに秘密で、こっそりとプレゼントしてくれた」と明かされるが(P.30)、「映画」ではそのことを示すエピソードもヒントも「省略」され、具体的に示されてはいない。

YouTube『マイスモールランド』予告編

「映画」の冒頭のアバンタイトルにあたる「結婚式シーン」は「小説」でも描かれるが、「小説」ではそのシーンの前に、約30ページを費やしてサーリャ一家が日本に来るまでの経緯と、母親が亡くなるまでのエピソードが語られている。

その中で、より直接的にサーリャの母親への想い、そして父親との距離の違いを表しているのは、「小説」の次の一節だろう。

お母さんは、私にとって、唯一、なんでも言える存在だった。
(略)
お父さんに言えないことも、お母さんには話していた。
(P.29)

「母親」の、「映画」における「不在」は、おそらくはサーリャの「アイデンティティの物語」の骨格を強固なものにするために、「父と娘」に絞り込んだのだろう。その意味で、この「不在」は、「映画」における「省略」だったのだろう。
(ちなみに、前項で挙げた「妹アーリンのオーディション応募」のエピソードは「小説」においても「復活」はしておらず、「省略」されたままになっている。)

なお、この物語には、サーリャの「母親」以外に、もう一人の「母親」が登場する。サーリャの相手役である聡太の母親だ。
彼女は、「息子へ愛情を注ぐ母性」として、そして「(善良ではあるが)日本社会の保守的な大人」としての両面が描かれている。
「サーリャと父」「聡太と母」という相似形を形作っている点でも興味深いが、「映画」でも「小説」でも、そこまで深く掘り下げた描写がされているわけではない。
勝手な推測だが、もしも『マイスモールランド』が、上映時間による制約の少ないインターネット配信の「連続ドラマ」として作られるなら、この相似形は、物語を膨らませる面白いサブプロットになっただろうなと思う。

「自転車」~翼・相棒

2点目は、「自転車」について。
「映画」でも「小説」でも、作品を象徴するメインビジュアルとして「サーリャと自転車」が用いられているように、この物語で「自転車」が重要な位置を与えられていることは明らかだろう。

「記号」としての自転車の意味(シニフィエ)は、「映画」では直接的な言語を通しては語られないが、「小説」では直接的な「言葉」で表されている。

GINZA (https://ginzamag.com/interview/mysmallland/)

たとえば「小説」では、サーリャの一人称の言葉で、自転車について次のように語られている。

自転車を買ってもらったとき、お父さんにもお母さんにも秘密で、初めて橋を渡ったんだ。
私は、ものすごく、自由だった。
自転車は、私を遠くに連れて行ってくれる。私の翼だった。
(P.56)

また、終盤の、サーリャが自転車を「取り戻す」シーンでは、

私はまず、大事な相棒を取り戻しに行った。
(P.201)

と、「翼」「相棒」といった比喩により、シニフィエとしての意味内容を明かしている。(蛇足ながら付け加えれば、小説では「自転車に乗って橋を渡った=県境を超えた」ことが、「自由」の象徴として描かれてもいる)

これらは、「小説の言語」としてはやや直接的すぎるようにも思えるものの、川和田としては、これは、「映画」では「映像(ショット)」で表現しえたが、「小説」では「言葉」として書いておきたかった(あるいは直接的に言語化せざるを得なかった)ところだったのだろう。

「トルコ」~どこの国から来たの?

3点目は、作劇上の理由とは異なると思われるが、「映画」ではまったく触れられていない「トルコ」という国名である。
「小説」では、サーリャたち家族が「どこの国から来たか」について、「トルコ」という固有名詞で明示されている。
しかし「映画」では、この国名は完全に伏せられている。おそらくは「映画」が海外でも上映されることを前提にした、トルコ政府への配慮だろう。
(なお、「映画」では冒頭にテロップで「今住んでいる場所の言葉、かつて住んでいた場所の言葉、そして民族に伝わる言葉」が話される旨の説明がなされる。「シナリオ」では冒頭に「日本語、トルコ語、クルド語が使われる」旨の明確な説明があるが、「映画」の画面上では「トルコ語」との表記自体も避けられていた。)

物語の中で印象的なのは、サーリャが聡太から「どこの国から来たの?」と質問される、河原でのシーンだ。

YouTube『マイスモールランド』本編映像1

「シナリオ」では

聡太「・・・・・・ほんとはどこの国から来たの?」
サーリャ「・・・国じゃないんだけど・・・クルド・・・って知らないよね」
聡太「・・・・・・クルド・・・?・・・・・・ごめん・・・わかんない
(#29)

「小説」では

「サーリャは、どこの国から来たの?」
長い前髪の下から覗く、まっすぐな目が私に問いかける。
「・・・・・・クルド」
聡太くんは、クルド・・・・・・と繰り返して、首をかしげて考える。
(略)
「ごめん、わからない」
(P.94)

という会話として描かれる。

「小説」では「トルコ」という国名を作中で伏せる必要性はないので、ここでサーリャが「クルド」の説明をする際に「国としてはトルコ」という説明を加えても話の流れとして不自然ではない。しかし、サーリャはそのような説明はしない。

日本で生まれた妹や弟とは異なり、サーリャは現在も「トルコ国籍」のはずだが、彼女の「ナショナル・アイデンティティ」がそこにはないことが、このシーンによって表現されている。

テーマへの言及~僕が僕であるために

「映画」で強く印象に残るシーンの一つに、サーリャの「パパ活」シーンがある。カラオケボックスで「おじさん」と2人でカラオケをするのだが、そこでおじさんが歌う楽曲として、尾崎豊の『僕が僕であるために』という楽曲が選ばれている。
「シナリオ」では楽曲の指定はない(#68)のだが、「映画」では、パパ活をする「下衆なおじさん」がティーンエイジャーの純粋な思いの込められた『僕が僕であるために』を熱唱する、アイロニックな苦笑を誘うシーンでもあった。

シナリオではこの「歌うシーン」は

歌うおじさんにタンバリンで付き合うサーリャ
(#68)

と短いト書きで書かれているのみで、このト書きの後に、おじさんとサーリャの会話へと続く。

この選曲については、川和田はネットで公開されているインタビューで次のように答えている。

「(あの選曲は)私です。」
「(意図としては)皮肉です。でも、自分はこれ選択して、この曲しかなかったなと、今では思うんですけど。」
「(40代男性が歌うことの多い)尾崎豊の楽曲の中だったら、これが一番皮肉が効くなあって。」
「(曲で)笑わそうって狙いではないんですけど。」

YouTube 活弁シネマクラブ(https://www.youtube.com/watch?v=QTJbhTmAsgk&t=99s): 47分辺り

「映画」へのインタビューではアイロニーのための選曲だと語られるこの楽曲の扱い方は、「小説」ではやや異なる。「小説」では、このシーンは次のように描かれている。

「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない、正しいものが何なのか、それがこの胸に解るまで」
と、おじさんが熱唱する歌詞が刺さった。私が私であるために、と心で唱えてみた。おじさんは気持ちよさそうに歌い上げると、私のすぐ横に身体を寄せて座った。
(P.169)

「歌詞が刺さった」というサーリャの心情は、「映画」の映像ではまったく表現されていないことから、ここは「小説」の執筆時に川和田が書き足したのだろう。

そして実は、サーリャに“刺さった”「自分が自分であるために(勝ち続ける)」という言葉は、「小説」の最終盤に父マズルムの心情として、変奏された形で再び登場する。
弁護士の山中とサーリャが、アパートでマズルムの冬物の衣料をまとめているシーン。見つけられたマズルムのノートにクルド語でびっしりと書かれた長い文章をみて、山中が語った言葉である。(「映画」ではノートにクルド語か書き込まれていたという設定はなく、これは「小説」のみの設定になる。)

「きっとお父さんは、忘れないために書いたんだ。クルドのことを。自分がだれであるか。遠くの土地にいても、自分であり続けるために」
(P.193)

この「小説」の最終盤での呼応は、川和田によって意図的になされたものだろう。つまり、ここでの父マズルムの行動も、その後のラストシーンへと続く娘サーリャの行動も、それぞれが「自分であり続けるため」の行動だということだ。

マズルムのアイデンティティは「クルド人であること」、そして「子どもたちの良き父親であること」と描かれる。
むろん、物語で書かれるように、ここでの「父親」の像にはクルド文化のパターナリズム(父権主義)が見え隠れし、日本では最近聞かなくなった言葉である「家長」といった意味も色濃い。そして、それは現代の日本で育ったサーリャのアイデンティティと、必ずしも親和しない。

記事の冒頭で、この「映画」のパラテクストの一つとして、「1人の少女のアイデンティティーをめぐる物語。」との惹句を引用したが、その意味をもう少し読み込めば、これは「父と娘の相互のアイデンティティの相克と、その受容(あるいは宥和)」の物語と捉えることもできよう。

なお、上記の、アパートでのサーリャと山中の対話のシーンは「映画(シナリオ)」でも描かれているが、そのシーン(#78)では、「自分であり続けるために」というセリフは書かれてない。

この違いは、映画と小説という異なる表現形式を意識した上での、川和田の選択だろう。
直接的に「アイデンティティ」というテーマを表現する「自分であり続ける」という言葉を、小説という表現形式では「書くべき言葉」と考え、映画という形式では、それを「言葉にはしない」としたのだと思う。
もちろん、制作の時系列から考えれば、映画で使用した『僕が僕であるために』の歌詞によって小説執筆時に付け加えられた可能性もあるが、いずれにせよ「映画」において「テーマを直接的に語らせるセリフ」は、一般的には映像化しずらい(「説明的になる」、あるいは「それを語らせるためだけの不自然なシーンになる」)こともあり、川和田がそのように判断したのだと思う。(上述の通り、「小説」においても、この言葉はマズルム本人ではなく山中に語らせている)

ラストシーン~「独白」と「目の力」

物語は、上述のアパートのシーンから、クライマックスともいえる「入管での父娘の対話」を経て、ラストシーンへと続いていく。

「映画」と「小説」のラストシーンは、それぞれ異なる「場所」が選ばれている。まず、「小説」のラストから見て行こう。なぜ、先に「小説」のラストから見ていくのかは、追って説明する。

「小説」のラストシーンの「場所」は、サーリャが自転車を漕いで荒川の橋を渡って着いた、「東京側の河川敷」と書かれている。
最後の二段落は、

私は、自分の足で、大地を踏んでいる。息を吸って、吐く。
私を見ている人は、今、誰もいない。
それでも、今、ここで、たしかに生きている。

Insallah em ê rojên ronahî bîbînîn
あなたと私たちの未来に、光がありますように。
(P.203)

と書かれて「小説」は閉じられる。(引用中の祈りの言葉はクルド語)

「映画」のラストシーンは、サーリャが住む「アパートの洗面所」になる。「シナリオ」は、以下のように締めくくられている。

サーリャ “Insallah em ê rojên …”
「私たちの未来に光が・・・」
それ以上の言葉が思い出せない。濡れたままの顔を手で拭う。(父がした祈りの動作のように)
開いたその目は決して力を失ってはいない。
(#83)

実は、このラストシーン(#83)の前に、「小説」のラストシーンにあたる上述の「東京の河川敷」のシーンがある(#80、#81)。
言い方を変えれば、(制作の時系列に従って言えば)「小説」では、「映画」のラストシーンである「洗面所のシーン」が削られた、ということでもある。(そのために「小説→映画」の順での紹介とした。下に図表あり)

洗面所のシーンを「小説」で削除した川和田の意図は、おそらくは、サーリャにその「決意を独白させる場所」として、「国境の向こう側」を象徴する「東京側の河川敷」を選んだということだろう。

転じて、「映画」については、「独白」といった「言葉」による表現形式を避けト書きの「開いたその目は決して力を失ってはいない」を映像で表現するためには、サーリャが、鏡に映る自分と対峙する「洗面所」がふさわしいと考えたのだろう。

いずれも、見事な選択だと思う。

なお、「映画」のラスト前(#82)で印象的に描かれた「ロビンが作ったスモールランド」は「小説」では登場しないが、これについては、この「箱庭のようなスモールランド」を文章で表現することの困難さからだろう。映像であれば数秒で印象的に描けるこのシーンを、言語で読者に伝えることの困難さは、それぞれの表現形式の違いを顕著に表している。

『マイスモールランド』パンフレット(表3)より 

やや分かり難いかと思われるので、「映画(シナリオ)」と「小説」のラストシーンの違いを、以下の図表で整理しておく。「小説」のラストシーンにあたるのが、「シナリオ」では、ラストから2つ前のシーン(#81)となる。
なお「映画」では、「シナリオ」の「荒川に架かる橋(#80)」は使われていない。続く河川敷のシーン(#81)には「シナリオ」では、サーリャが自転車で転倒する動きがト書きには書かれているのだが、それも含めて「映画」では削られている。おそらく編集時の判断と思われるが、その前の入管のシーンから河原に立つサーリャへのシーンへと静的なショットのみで繋いだほうが(ショットの繋ぎとして)効果的だと考えたのかもしれない。

改めてそれぞれのラストシーンについて述べるならば、「映画」は、この「ロビンのスモールランド」に続いて、上述した「開いたその目は決して力を失ってはいない。」(#83)とト書きに書かれた、洗面所のサーリャの表情で本編映像が閉じられる。
その表情と目の力が、彼女の(力を失いそうになる程の)悲しみ、未来を切り開こうとする決意、その先の遠くにある希望を映し出していた。

「小説」では、「自転車で荒川に向かうシーン」が「復活」したかたちになるが、そこでは河川敷でのラストシーンに向かうサーリャの心情を表す重要なシーンとして描かれている。
マズルムから自転車の隠し場所を教えられ、それを再び手にしたサーリャの、

あの、荒川にかかる大きな橋を渡る。
埼玉から、東京に渡った。誰がここに、国境を引けるんだ。私には、それを越える力がある。私が、自分の進む道のハンドルを握ってる。自動車にも、大きなトラックにも負けない。流れには、流されない。
立ち漕ぎをして、思いっきりスピードを出して力強くペダルを踏み続ける。踏めば踏むだけ、前に進む。
東京側の河川敷に着くと、自転車を降りた。聡太くんと、二人で来た場所だ。
(P.202)

という行動を描き、そして上述の

私は、自分の足で、大地を踏んでいる。息を吸って、吐く。
私を見ている人は、今、誰もいない。
それでも、今、ここで、たしかに生きている。

Insallah em ê rojên ronahî bîbînîn
あなたと私たちの未来に、光がありますように。
(P.203)

という独白と祈りで、決意と遠くにある希望が描かれ、物語が閉じられた。

父マズルムの決意を受けいれたのちの、娘サーリャの決意。「独白」と「目の力」。それぞれをより強く表現するための「場所」の選択。「小説」も「映画」も、それぞれの表現形式の特徴を踏まえた、良いラストシーンだと思う。

3. 心を揺さぶられたショット

冒頭に、僕がこの映画を高く評価する理由は「とても優れた、心を揺さぶられたショットがいくつかあった」ことだと書いた。ここでは3つのショットを取り上げる。

1つ目、河川敷(東京側)#29

このショットがほんとうに素晴らしかった。
県境に架かる橋、見えない向こう岸、語り合う二人。

YouTube「『マイスモールランド』特別映像」より

このシークエンスの一つ前には、「映画」の中でも印象的な、「人の善いおばあさんによるマイクロアグレッション(無意識裡に行われる悪意なき攻撃)」のシーンがある。その最も象徴的なセリフは

老婆「とっても言葉がお上手で。外人さんと思えない」
(#27)

というものだが、サーリャがその(マイクロアグレッションによる)悲しみや痛みを抱きながら、「クルド人であること」を打ち明け、「このこと、初めて人に話した」と小さく聡太に語る。サーリャの心が開かれていく時間がみごとに描かれていた。青春映画としての『マイスモールランド』の、もっとも心に残るショットだった。
(上記のYouTubeの公式映像とTwitterで投稿されたスチール写真では構図と色調が異なるのだが、どちらも素晴らしいのでスチールの方も貼っておく)

『マイスモールランド』公式Twitterより

2つ目、荒川の上流(秩父)#77

「映像的カタルシス」という言葉を随分前にどこかで聞きかじって、映画を語るときに重宝するので僕は時々使っているのだが、正にこのショットは、その「カタルシス」を感じさせてくれた。
サーリャたちと聡太が「荒川の上流」、地名としては「秩父」に出かけたシークエンスの、最初のショットである。直前の「電車・車内#76」からの切り替わった瞬間が、まさに「カタルシス」だった。
その前のシークエンスでは、弟のロビンがアパートから居なくなり、夜、姉妹と聡太がロビンを探す。見つかって、アパートで3人が寝ているシーンを挟んで、翌日の昼間の電車の座席のシーン、そして河原へと切り替わった瞬間の解放感。

「小説」では、夜道を4人で歩きながら「明日、みんなでキャンプに行かない?」とサーリャが提案するシーンが丁寧に書き込まれているのだが、「映画」では、そこはみごとに「省略」されており、ゆったりとした良いテンポのモンタージュ(ショットのつながり)で「夜道→アパートの(川の字の)寝姿→昼間の電車の座席→河原」とつながっていく。

「切り替わった瞬間」は、河原での4人のロングショットだったが、ネット上でその映像を探し出せなかったため、撮影地や色調が同じ「河原での二人の会話」の画像を下に貼っておく。(撮影地はおそらく親鼻河原)
前夜の「ロビンの事件」「サーリャと聡太の気持ちのやるせなさ、わだかまり」からの「解放・開放」を感じさせる、見事なショット(とモンタージュ)だった。

『マイスモールランド』公式Twitterより

そして、付け加えるならば「小説」では、どこかクルドの風景にも似た「秩父の河原」へのサーリャの想いが、より丁寧に描かれている。幼いころから父親や母親と毎年出かけていた場所として回想される中で、

お父さんにとって、山と川に囲まれた秩父は、クルドの民族、そして故郷につながる場所だと。
(略)
でも、秩父は私もとても好きな場所。
私にとっては、家族の場所だ。
(P.28)

と語られている。

この「秩父の河原」はサーリャにとってもマズルムにとっても、原風景(あるいはそれを思い出させる場所)なのだろう。
その場所が、(家族の)ちょっとした事件や、(サーリャと聡太の)気持ちのやるせなさ、わだかまりからの「解放」を感じさせるショットで映し出されていることは、とても優れた映画的な表現だと、「小説」を読んで改めて感じた。

3つ目、荒川に架かる橋 #8

このシーンだけではないのだが、サーリャが自転車を漕ぐショットが、どれも素晴らしかった。
一見なんということのない「制服を着たサーリャが自転車を漕ぐ映像」なのだが、ありていに言えば「存在のリアリティ」というのか。全編を通して「サーリャという女子高生は、本当に居るんだ」と感じさせてくれたのは、この「自転車を漕ぐシーン(ショット)」の存在に依るところが大きい。
僕が印象的だったのは、特に「立ち漕ぎ」での力の込め方なのだが、サーリャの感情や状況までが感じられる、素晴らしいショットだと感じた。
撮影時の演出や細かな演技指導によるものなのか、俳優の自然体なのかは分からないが、「映画」のリアリティに強度を与える、重要なショットだったと思う。

YouTube「『マイスモールランド』特別映像」より
YouTube「『マイスモールランド』本編映像1」より

なお、いちおう補足すると、サーリャ役の嵐莉菜はファッション雑誌『ViVi』専属のモデルでもあるが、この映画では良い意味で「モデルらしい華」を全く感じさせず、真に「普通の女子高生サーリャ」として、役を生きていると感じた。
歩き方、走り方、はにかんだ笑い方、自転車の漕ぎ方など、どれもが、モデルの嵐莉菜ではなく普通の女子高生サーリャだったと思う。(モデルらしい自転車の漕ぎ方というのがあるのかは分からないが)

4.映画の感想(オマケ)

さいごに、半ばオマケだが、僕が自分のSNSに投稿した、この映画の感想を(自分の記録として)貼っておく。

『マイスモールランド』という映画を観てきた。
そんなには期待せずにふらりと行ったんだけれど、ここ数年で見た邦画ではベストといっていいほどよかった。
ただ、いくつか記事や映画評をネットで読んだんだけど、どうも僕の感覚とは違ってるのが多い。
この映画、日本社会の難民の問題を取り上げてて、マイクロアグレッションのシーンがあったり、社会的なテーマの映画ではあるんだけど、そこよりもこの映画は素晴らしい「青春映画」だと思った。
主役の女子高生とその相手役の2人の演技が素晴らしかったし(失礼ながら雑誌モデルの方の初めての演技ってことでマイナスの先入観あったんだけど驚くほどの存在感を感じた)、その2人を中心とする多くのショットの鮮烈さとか(撮影は『ドライブマイカー』と同じキャメラマンだとか)ちょっと陰影のある色彩感とか(カラーグレーディングはフランスのポスプロで行ったらしいとか)、クルド難民の家族役の方々が実際の本当の家族だったとか、いろいろうんちくも語れそうなんだけれど、ひとことで言えば、やっぱり「とても素晴らしい青春映画」だった。

監督の発言を見れば「クルド難民」の問題意識から出発した映画なのは間違いないけど、僕は優れた青春映画として(も)評価したい。仮に監督が「普遍的な思春期のアイデンティティの揺らぎや葛藤を描くために『クルド難民』という題材を選んだ」と発言していても納得してた。素晴らしい青春映画の傑作。

そして、このショットがまた素晴らしい。
境に架かる橋、見えない向こう岸、並んだ自転車。そして語り合う二人。

主演の嵐莉菜さんの演技が素晴らしく、まさに「役を生きてい」た。良い意味で「モデルらしい“華“」が消えていて、(整った顔立ちではあるものの)まさに“普通の女子高生“で。立ち姿、そして特に自転車を漕ぐ姿。嵐さんの演技の天才性か、演出の妙か、一種のビギナーズラックか。たぶん全部なのだろう。

『マイスモールランド』、この「県境の橋の下」のショットに込められた感情と、電車で移動中のシーンから「河原」のショットに切り替わった瞬間の映像的なカタルシス。 この2つだけで、もう充分に傑作。思い出すだけで目がちょっと潤む。

そして、主題歌『New Mornig』のMVも、(たぶん)同じ県境の河原。同じ監督とキャメラマンの手で映されるのは、サーリャ、アーリン、ロビン。映画の後日譚の様な、誰かの夢の様な。 終盤、サーリャの唇が小さく「ロビン」って呼び掛けてるように見えるとこで、また目が潤む。


おわりに

『マイスモールランド』は、監督の川和田恵真の商業映画デビュー作であり、主演の嵐莉菜の(俳優としての)デビュー作である。
川和田は、前掲書の蓮實重彦の言葉を借りれば、「ショットが撮れる監督」なんじゃないかなと感じている。
嵐は、ひょっとすると天才肌の「芝居勘」の良い俳優なんじゃないかなと感じている。
この2人の関わる作品には、今後も僕は注目していきたいと思う。

(了)


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