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SNS時代に読む『芋粥』:他者の視線と自己価値の再考

人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。

作中で最も印象的で重要な文章だ。

芥川龍之介の短編を読んでいるとその鋭い切り口や価値観に惚れ惚れとするし、非常に現代に通ずるもののある考え方と感じる。

芋粥のあらすじ

平安時代、貧しい身分の五位という男が主人公である。
彼は日頃から憧れていた「芋粥」を一度でいいから腹いっぱい食べてみたいと願っていた。
ある日、彼の上司である貴族がその願いをからかうように聞き入れ、彼を豪華な宴に招待して芋粥を大量に用意する。
しかし、いざ目の前に山盛りの芋粥が出されると、五位はその異様な状況に気圧され、食べる気を失う。
結局、芋粥は手に入ったものの、彼が本当に満たされることはなかった。

芥川龍之介の「芋粥」は、表面的には貧しい五位が念願の芋粥を食べる滑稽なエピソードに見えるが深く考えると、
人間の欲望、満足、そして自己の存在意義についての鋭い洞察が込められている
この物語が描いていることをさらに掘り下げてみると、以下のようなテーマが浮かび上がる。

1. 欲望の本質

五位が芋粥を切望する理由は、実際に食べたいからだけではなく、芋粥が自分の「叶えられない夢」の象徴であるからである。
しかし、いざそれが手に入ると、五位は喜びよりもむしろ空虚感を味わう。
これは、欲望そのものが人間の生きる原動力である一方で、欲望が満たされるとその先に新たな渇望や虚しさが生まれるという、人間の心理を鋭く描いている。

• 本当に欲しいものとは何なのか?
• 欲望が満たされた後、人は何を目指して生きるのか?

2. 人間関係の冷酷さ


五位をからかう上司の行動は、階級社会の中での「権力者の遊び」を象徴している。
上司は五位の願いを叶えるふりをして、実は彼を嘲笑の対象にしている。五位がそれに気づきながらも抵抗できない様子は、権力構造の中での弱者の無力さを浮き彫りにします。
この「遊び」は現代にもあり、プラットフォーマーがインフルエンサーを使うことに似ている。

• 社会の中で「弄ばれる側」にいることの意味とは?
• 弱者の尊厳はどのように守られるべきか?

3. 自己価値と他者の視線


五位は物語の中で、自分の欲望や夢を笑われる存在として描かれている。
このことは、彼が「他者の視線」によって自分の価値を規定されていることを示しており、
彼が本当に欲しかったのは芋粥ではなく、自分が尊重されることや、存在を認められることだろう。

• 人間は他者の評価によって自分をどれほど左右されるのか?
• 本当の「幸福」とは何に基づくものなのか?

4.普遍的な人間の姿


芋粥は単なる食べ物ではなく、人間の欲望、階級意識、他者との関係性を象徴している。
この物語は時代や場所を超えて普遍的な人間の姿を描き出しており、
現代においても私たちは五位のように、他者に評価されるための欲望を追い求めたり、叶わない夢に憧れたりする。
これはSNSでいいねの数が欲しかったり、「有名になりたい」という思い「フォロワーがほしい」という感覚がわかりやすい。

現代社会の芋粥


芥川龍之介の「芋粥」が提示するテーマは、現代社会のさまざまな問題にも通じている。
この物語に描かれる欲望、階級、他者の視線、自己価値の追求といったテーマは、今日の私たちの生活や社会構造の中で、以下のように具体化される。

1. 欲望の無限ループと消費社会


現代社会では、物質的な豊かさが進む一方で、人々は絶え間ない欲望を抱えている。
特に消費社会では、企業や広告が新たな欲望を次々と生み出し、私たちを「もっと良いもの」「もっと新しいもの」へと駆り立てる。
しかし、手に入れた途端にその価値を見失い、新たな欲望を追い求めるという無限ループが続きます。

現代の芋粥: 高価なブランド品、新型スマートフォン、SNSでの「いいね」の数などが、現代版の「芋粥」として考えられる。

本当に必要なものとは何か?「欲望を満たすこと」が幸福に繋がるのか?

2. 格差社会と社会的階級


物語の中で五位が上司にからかわれる構図は、現代社会の格差や権力構造にも似ている、
経済的不平等や職場のハラスメント、SNS上でのマウンティング(他者を貶める行為)など、人間関係の中で他者を見下したり、弄んだりする行為は依然として存在する。

現代の問題: 労働環境における不平等、SNSでのいじめ、誹謗中傷、経済的な階層間の分断。
五位の姿: 貧困層や低賃金労働者、社会的少数派が、自分の欲望や権利を正当に追求できない状況に似ている。

3. 他者の視線と自己価値の喪失


現代はSNSの普及によって、他者からの評価が個人の自己価値を大きく左右する。
物語の五位が「芋粥」を夢見る姿を嘲笑されたように、現代人もSNS上で夢や趣味を晒すことで批判や冷笑にさらされることがある。
このように、他者の視線が自己実現や幸福を妨げる状況が生まれている。

現代の問題: SNS依存症、過剰な自己ブランディング、バーチャルな承認欲求。
五位の姿: 他人に認められることでしか自分の価値を確認できない人々。

4. 滑稽さと哀愁の中にある生きがい

「芋粥」の五位は、滑稽でありながらどこか哀れさも感じさせる存在で、これは現代社会の中で小さな夢や目標を持ちながらも、
それを追う姿が周囲から冷笑されたり軽視されたりする現状を象徴している。
しかし、そうした「小さな夢」こそが人間を支えているという視点は、現代にも重要である。

現代の問題: 「成功」や「大きな夢」を強調する文化の中で、小さな幸せや日常の充実が見過ごされる。
五位の姿: 「自分らしい生き方」を見つけられず、社会の期待に翻弄される人々。

5. 普遍性と現代社会の人間性

「芋粥」のテーマは、現代における多くの問題の本質、
つまり「人間の持つ『満たされない心』と『社会の構造的な不平等』」
に深く結びついている。
テクノロジーが進化し、物質的には豊かになっても、こうした人間の根源的な問題は変わらない。

五位の「芋粥」: 現代人にとっての「叶えたいけれど、叶えると虚しくなるもの」として、より多くの物や評価を求める行動が挙げられる。

「芋粥」が現代に問いかけるものは、欲望や満足がどこまで必要なのか、
そして自分の価値をどこに見出すべきなのかという根本的な問題である。

この作品を通じて、私たちは「何のために生きるのか」「どこに幸せを見出すべきか」を改めて考えるきっかけを得られるかもしれない。

人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。


この一節は、人間の欲望の本質と、その影響による生き方の矛盾を鋭く指摘しておりここでは、芥川が「人間が何に対して一生を捧げるのか」という問いを、シンプルながら深く投げかけている。
最も印象的だったこの一節について考える。

1. 欲望の正体が曖昧であること


この文で重要なのは、「充されるか充されないか、わからない欲望」という表現。
人間が追い求める欲望は、しばしば明確な形を持たず、それが叶ったとしても本当に満足できるかはわからない。
欲望を叶えた瞬間にそれが「過大評価されていた」と気づく場合もある。
芥川のこの言葉は、そうした欲望の不確実性を端的に示している

現代的な例: 高い収入や名声を求める人が、それを手に入れても幸福を感じられない場合が多々ある。
彼らは「もっと稼げば幸せになれる」
「もっと評価されれば満足できる」と思いますが、その満足はいつも先送りされていく。

2. 人生を捧げる矛盾


人間はこの「わからない欲望」のために、一生懸命働き、努力し、人生の大半を費やす。
しかし、充たされる保証がないものに時間やエネルギーを注ぐのは、どこか滑稽で悲哀に満ちた行為であり、この矛盾が芥川の皮肉的な視点を通して浮き彫りにされている。

五位の場合:
五位は芋粥に憧れ、その夢を一心に抱いてきたがそれが手に入ると喜びは持続せず、かえって不快感を覚える。
この姿は、人間が人生の中で追いかける
「手に入れるとそうでもなかったもの」を象徴している。

3. 人間の本質としての欲望


この一節は、欲望の不確実性を嘆く一方で、それが人間を突き動かす原動力であることも暗示している。
人間が「欲望を抱かない状態」で生きることはほとんど不可能で、
たとえその欲望が曖昧で、満たされない可能性が高くてもそれを追い求めることこそが「生きる」という行為の一部になっている。

欲望は、時に人間を不幸にするがそれがなければ生きる意味を見失うかもしれない。
この一節は、欲望を否定するのではなく、むしろその存在が不可欠であることを逆説的に示している。

4. 現代への示唆


この言葉は、現代の私たちにも多くの示唆を与えている。
特に、社会が加速的に変化し、人々が多くの選択肢や目標を与えられる中で、何を追い求めるべきかがますます曖昧になってきている。

キャリアの成功、経済的安定、SNS上での承認など、現代の「欲望」は多岐にわたり、満たすことが難しいものが多い。
それでも、多くの人はそれを追い求め、
「これさえあれば幸せになれる」と思い込む。
しかし、それが本当に自分の人生を充実させるものかどうかは、しばしば疑問である。

5. 人生の意味の再構築


この一節を読むとき
「欲望に振り回される人生ではなく、自分で意味を見出す生き方」
を考える必要性を感じるはず。

欲望の達成そのものではなく、それを追う過程で得られる成長や経験の価値に目を向けることで、芥川が指摘する「空虚な一生」から脱却できるかもしれない。

この言葉は欲望に振り回される人間の悲哀を描きつつ、私たちに欲望との向き合い方を問いかけている。
それは満たされることを期待するのではなく、欲望を持ちながらもそれに囚われない生き方を模索するためのきっかけになるかもしれない。

音楽家にとっての芋粥


「演奏の収入で生きていく人間こそが音楽家だ」
「コンクールで勝つこと」
「オーケストラに就職すること」
「より高レベルなオーケストラに入ること」
など目指すすべき姿というものを自分たちで作り出しそれに縛られて必死になっていたように思う。

しかしその全てが結果の一つでしかなく、その結果によって自分が心から満たされたり必ずしも幸福を感じるとは限らない。
もっとも、それを達成したにも関わらず幸せじゃないなんて今までの人生全てを否定することになってしまう。

手段が目的になっていないだろうか。
そもそもなぜ音楽をしたいのかという根源的なことを見つめることが音楽家としての幸福に繋がるのではないか。

そういったことをこの短い小説で考えさせてくれる芥川龍之介の文学が好きだ。

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齋藤友亨 Tomoyuki Saito
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