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流れをつかむ日本史「戦国時代 前編」
トモーロです。
大変お待たせいたしました。今回は、流れをつかむ日本史、いよいよ戦国時代に入っていきます。
前回、足利尊氏の妻、日野富子の愛が国を乱し、応仁の乱へと発展していきました。
そのころ、下剋上の風潮が高まり、完全実力主義の社会へと変化していきます。そして、世は乱世へと突入していきます。
それではいきましょう!
<織田信長の登場>
尾張の小国からのし上がった武将が織田信長(おだのぶなが)。実は、小さいころはリーダー的な存在ではなかったといいます。
小さい頃は変わり者で、誰からも理解されることはなく、奇妙な行動が多く周りからは馬鹿にされていたそうです。
こんな話を聞くと、何か今でも同じことが言えるような感じですよね。やはり、のちに何かを成し遂げるような人は、小さいころはあまり理解されないことが多いようですね。
しかし、父親の死後、信長は次々とライバルを倒しいき、尾張の国の制覇に成功します。
そして、小さいころには周りから嫌われていた信長が徐々に戦国武将として頭角を現していきます。
その名前は一気に全国区になっていきます。どんどん力をつけた信長のもとに駿河の今川義元(いまがわよしもと)が2万5000の大軍で尾張に攻め込んできた。
それに対して、織田軍の兵は3000人しかいない。どう考えても勝利の可能性は低く、絶体絶命のピンチ。
しかし、信長はビビらずに立ち向かっていき、一瞬の隙をついて義元の首を奪い勝利することができました。これが、桶狭間の戦いです。
<大きな3つの改革>
信長はどんどん改革を行っていきます。彼の偉大さは既存の枠組みに拘束されない革新性であった。まず行ったのがこれまでにない鉄砲を使った戦い方である。
この新兵器を誰よりも重視した信長は、長篠の戦いにて当時無敵と言われていた武田軍に対し、鉄砲を用いて戦って勝利を収めた。そして、勝利したのち安土城を建設。
その次に行ったのが宗教改革である。信長は自分に逆らう宗教勢力を徹底的に弾圧していきました。主に仏教です。
これまでにも見てきましたが、仏教は古代の蘇我氏が取り入れるか取り入れないかで争いが起こり、聖武天皇のころには、流行り病を抑えるべく大仏が立てられました。
そこから、鎌倉NEW仏教6が現れ、庶民にも浸透していき、とても歴史が深い宗教でした。しかし、信長は、徹底的に弾圧。
特に比叡山延暦寺は、当時日本最高の宗教的権威があった。しかし、信長は比叡山の僧坊をことごとく焼き払い、3000人の僧侶を殺害しました。
最後は、軍事組織改革です。当時争いを起こそうとなったときの兵は農民がほとんどでした。しかし、それだと農家が忙しくない農閑期にしか争いを起こすことができません。
そこで、信長は合戦をいつでもできるように争い専門部隊をつくり、いつでも争いに参戦できるようにした。
また超合理的人事であり、過去にいくら結果を残せていようが、いくら側近であっても使えなくなったものはすぐさま切り捨てるという合理化を図ります。
<合理的政策が自分の首を絞める>
一方で、安土城の城下町はどんどんと栄えていきました。それは、楽市令が出されたことによるものでした。
これまでは、その土地が属している農村の人のみしかその村で商売をすることができなかった。
しかし、楽市令の発令によって、よそ者や新規参入者でも自由に商売ができるようになり、城下町が繁栄していきました。全国の産物が織田信長のもとに集めるようになった。
信長のさまざまな改革のおかげでいい面も多かったですが、あまりにも我が道を行く合理的な考えが生涯にわたって恨みを買うことも多かった。
それに痺れを切らした男がいた。それが明智光秀(あけちみつひで)であった。
夜中、信長が本能寺で寝ているとき、本能寺に日の矢が撃ち込まれます。それが本能寺の変です。炎に包まれた中で信長は自害し、信長の時代はこうして幕を閉じました。
<まとめ>
いかがだったでしょうか。今回は、戦国時代の織田信長をみていきました。
信長の死後、豊臣秀吉が頭を使いながら全国を統一していきます。どのようにしていくのでしょうか。
次回もお楽しみに。
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