既視感。「ノマドランド」
既視感。
「ノマドランド」を観終わって、デニス・ホッパーの「イージーライダー」(1969年アメリカ)で感じた何かと同じような気がして、以前noteに書いた自分の文章を見たらやはりそうだった。
「自由な奴を見るのが怖いんだ」というジャック・ニコルソンのセリフがあった。僕は、美辞麗句を並べても、その別の顔は他者の排除だとも書いた。
70年代80年代のアメリカ映画で観たロードムービーの多くは、憧れや夢にワクワクさせられ、同時に刹那的で、「これは映画の中の話だしな」と思いつつも楽しく、だから映画が好きで、俺だっていつかは旅に出るんだという気分にもさせてくれたのだった。
「ノマドランド」に出てくる”漂流する高齢労働者たち”は、「イージーライダー」でバイクを走らせていた人たちと同世代。刹那的な自由を追った半世紀前と社会は変わってしまったのか、それとも何も変わらないのかな。
多くの出会いや別れの経験が、静かに自分と向き合う時を必要とするようになるのかもしれない。
映画を観た日の夜、テレビ番組の中で、作家の平野啓一郎が、この本に出合わなければ文学の道には進まなかったと言う三島由紀夫の「金閣寺」について熱く語っていて、そこでまた既視感。
平野が、「きらびやかで華麗なレトリックと(主人公の)暗い内面。そのコントラストが異様な迫力」と語り、ちりばめれた暗喩を解説していたら、そうだった、「ノマドランド」は文学だと思った。
亡くなった夫の思い出を積んだバンで移動しながら、期間労働の職を訪ねながら旅を続ける女性。
彼女の心の揺れが、アメリカ西部のスケールの大きい景色の移ろいや音楽で表現されていた。
確かに、ロードムービーの原作小説を読み終えたような気分になった。