走ることは旅に似ている
明日はどんな旅になるだろう。
不意にそんな言葉が頭に浮かんだのは昨夜のこと。何かわくわくするような気持ち。
フルマラソンの前夜にそんな気分になるのは初めてだ。いつもなら複数の不安が心の隙間に入り込んで、そわそわして落ち着かなくなる。
でも昨日は違った。
右足のかかとの痛みはランニングフォームの改善で気にならなくなった。(関連記事:走りながら、ととのえる|tomo|note)
左ひざの内側の痛みはハムストリングス(ふとももの裏の筋肉)の張りが原因と分かり、マッサージで随分軽減した。
足の親指の肉に食い込んでいた巻き爪は専門の先生に「ジャッキ」の要領で持ち上げて固定してもらった。
痛みが消えて気持ちが軽くなったのかもしれない。
多くの市民ランナーにとって、42.195kmは持てる力をフルに発揮してたどり着ける道のりだ。そこにはいくつもの気持ちの浮き沈みがある。
自分の心や見える景色は、明日どんなふうに移り変わっていくのだろう。
高揚する気持ち
走ることは旅に似ている。
スタートラインは国際線の搭乗口のようだ。肩にバックパックの重みを感じながら、搭乗券を握りしめて列に並ぶ。窓の向こうには離陸を待つ飛行機が見える。そんなイメージ。
学生時代に一年近く東南アジアからインド、中近東を旅した。成田空港でバングラデシュ航空の搭乗口に並んだ時の高揚感を思い出した。
この先の道を自分はどんなふうに駆けていくのだろう。想像できないからこそ面白い。変化することが楽しみだ。
10秒前。カウントダウンが始まった。
気象条件は前回3月に出場した時と似ている。今は11月の初旬、快晴で微風。予想最高気温は19℃。陽射しは強く、立っているだけですでに暑さを感じる。
コースは河川敷沿いに10kmほど北上した後に折り返し、スタート地点に戻って21km。そこからさらに南下して32km地点で折り返し、再びここに戻ってゴールとなる。
前回は初めてサブ3.5(3時間30分)を切ることができた。3時間29分26秒。(関連記事:あいつは37km地点にやってきた|tomo|note)今回も自己ベストを更新したい。
号砲が鳴った。にぎやかな音楽と拍手に送り出されてスタートした。
5kmごとの給水ポイントでは、前回の反省を踏まえ都度立ち止まってコップ一杯の水やスポーツドリンクを飲みほす。
走っていると意外に涼しさを感じた。息が上がることもなく、自然体で軽快に。
順調だ。
後半は粘れるかもしれない
でも、涼しさは風速1mのわずかな向かい風が顔にあたっていたからだと気づいたのは、最初の折り返しを過ぎてからだ。
風が消えた途端、左頬にじりじりと陽射しを感じ始めた。今は追い風だから本来はスピードが上がるタイミングではあるが、風速1m程度だとあまり効果はない。それよりも暑熱のほうが気になる。
シドニーオリンピックの金メダリスト高橋尚子さんは以前こんな話をしていた。
「マラソンでは足よりも先に脳が弱音を吐く。だまされてはいけない」
体力は十分に残っていても、脳は身体に指示を出して動きをやめさせようとする。「限界が近づいてきているぞ」という暗示をかけて、少しでも身体を楽な方向に誘導しようとするのだ。
脳は合理的だ。
それゆえ、自分の限界を越えたいという人の意欲にまで気が回らない。
本当はハーフの21kmまでは、最初の高揚感をエネルギーに軽快に走ることができると思っていた。でも照り付ける陽射しは少しづつ脳を弱気にさせていく。13km地点。ハーフの21kmが遠いなと感じた。
だまされないように。
足腰はまだまだ粘れるはずだ。ペースを落とさないためにピッチをキープしよう。
ピッチとは1分間に刻むステップの回数。ペースは同じでもストライド(歩幅)が長いとピッチは少なくなるし、短いと逆にピッチは多くなる。フルマラソンを走っていて心地よいと感じるのは隣で走る人と足音が重なる時、つまりピッチが同じ時だ。一致した足音がリズムとなって身体全体が弾み始める。
そういえば、スタート直後の5km程度の間、全速力とジョグを繰り返すランナーがいた。何度も追い越されたり、追い越したり。ランナーが多様であればあるほど、刻むリズムは異なる。改めて自分のピッチを考える機会になった。
スタート地点、つまりハーフの21km地点に戻ってきた。タイムは概ね予定通り、1時間43分。
前回のマラソンでは37km地点までは軽快に走り続けたが最後の5kmで足が止まった。今回はハーフの地点ですでに疲れを感じ始めている。だから、給水ポイントでは毎回丁寧に水分を補給した。同じピッチの人を見つけてはしばらく並走しリズムをもらった。
26km地点が近づいた。家族が応援に来ていればこのあたりだ。ここで声援をもらえれたら最高だな。それは32kmの折り返しまでのエネルギーになるだろう。写真を撮ってもらえるように帽子をかぶりなおした。サングラスを外して頭の反対側に掛けた。
いなかった・・・
モチベーションが下がらないよう、気持ちを前向きに立て直す別の切り口を探す。
今回は疲れを感じ始めたタイミングは前回よりも早い。だからこそレースの中盤あたりから水分補給を繰り返し、小さな備えを積み重ねている。タイムは落ちていない。
後半は意外と粘れるかもしれないぞという期待が芽生えた。
サングラスをかけ直した。
2秒先の世界
32km。最後の折り返し地点を通過した。2時間38分。あとは戻るだけ。
一歩進めばゴールは近づく。これはとてもモチベーションの高まる状況だ。折り返しに向かってゴールと反対の方向に走っている時間もマラソンコースなのだからゴールは近づいている。けれど見える景色はゴールから遠ざかる。あとで戻らなければいけないという心理的な負担はとても大きい。
でも折り返しは過ぎた。無意識のうちにテンションが上がりペースが速くなった。あとはゴールを目指してまっすぐに走るだけだ。シンプルなことは脳もうれしい。
35kmを過ぎると明らかに足は動かなくなってきた。意識してピッチを刻まなければペースは5分/kmを越えてしまう。
自己ベストを出すには最低4分58秒/kmは必要だ。30kmまでは4分56秒/kmで走ってきたから多少の貯金はあるものの、このままペースを落としてしまうと記録更新は難しくなる。
いよいよ来た。全神経を「頑張る」ことだけに集中する時間だ。
40km。時計を見ようとしてやめた。
時計を見ても見なくても、あとは力を出し切るだけだ。万一、諦めざるを得ないタイムになっていれば、今ここで足が止まってしまいそうな気がした。
河川敷では休憩中の野球少年が「がんばれ!」と応援してくれているのに、もう手を挙げて応える力がない。前方にプラカードを掲げた人の姿が目にはいった。「あと1キロ!」という文字が見えて通り過ぎた瞬間、「がんばってください」という遠慮がちな声が聞こえた。一人ひとりに声を掛けてくれているのだろうか。マラソンでもパレードでも、沿道で応援してくれる人の存在は素晴らしい。頑張る姿を後押しできる人に自分もなりたいと思う。
41km。喉の渇きが限界に来た。残り1km少しを走り切るには一口でも水分が欲しい。最後の給水ポイントが目に入った。ペースを落とさずコップを手にとった。顔にかけて口に入った分だけ喉もとを通り過ぎた。
ゴミ箱にコップを捨てようとした瞬間、目線が少し下がって時計の文字が見えた。
3時間24分。
残り1.195km。あと5分少しで自己ベスト更新だ。
いける。
ゴールが見えてきた。会場には多くの人たちが声援や拍手を送ってくれている。司会者のアナウンスが聞こえてきた。「さあ、もう一息!サブ3.5はもうすぐですよ!」
ゴール。
走り抜けながら時計を止めた。地面に倒れ込んで時計を見た。
3時間29分24秒。
自己ベストより2秒先にたどり着いた世界は真っ青な空が広がっていた。一年振りに帰国した時のように、ゴールの地はとても懐かしく暖かい。
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走ることは旅に似ている。
出発する時の高揚感。肌に触れる風の冷たさや太陽の熱。流れていく景色。人との出会いと別れ。移り変わる感情。期待、不安、情熱。終わってみると出会った一つひとつが大切な思い出だ。
そしてまた、旅に出たくなる。
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