誰かの選択を、社会のものさしで否定しない
衝撃作を、やっと読みました。
私たちって、いかに自分や社会の物差しだけで、軽々しく誰かの選択を否定しているのかも知れない、そう思ったら、その気づいたところがヒリヒリします。
私は大丈夫、視野広いから、なんてものすごい傲慢かましてきたのかもなあ。
夫婦だから、性生活ができて当たり前。
どのくらいの頻度でやってる?
体の相性が合わなくっちゃ、夫婦はしんどいよね〜
知らずに、気づかずに、放ったことのあるこれらの言葉を、
こだまさんのように、悲しみを沈殿させながら、話を合わせてくれてた人も、きっと中にはいたのだろうな。
この場を借りて、ごめんなさい。
改めて思うけれど、夫婦や結婚、出産のことって、あまりにも<定形>がありすぎますよね。
こうやって言うのは簡単だけれど、こんだけ多様化した社会で、まだ結婚や出産については、岩みたいな「こうあるべき」が全然溶解していかない。
型にはめて、考えたり、判断したり、見たりするほうが、楽なのだろうなと思いますが、
こだまさんは、こうやってちんぽ丸出しで書きでもしなければ、きっとこの、どこいっても迷路の行き止まりみたいな社会で、窒息死してしまっていただろうなと思います。
私たちが、いかに何も知らないか、と言うことを知れたことは、私にとってもこだまさんにとって、きっと救いだ。
夫婦ってなんでしょう
ふりかえると私も、夫とは、もう1年あえていないのでした。この5年、別居婚ですが、物理的に1年も合わなかったのは、初めてです。
なんとかすれば会えなくはないけれど、コロナお互いのすれ違いやタイミング、チャットでの誤解、曲解、限界が重なり、ややコロナ離婚状態を更新中(笑)。
このまま、どうなるかドキドキしながら見守っているのですが、この1年、本当に夫婦というものを考えさせられました。
お互い大人なのだから、性生活にもそれぞれ自由な時間、選択肢があって当然だと思っています。もうそこは、お互い詮索しない。してもしょうがありません。
一緒にいないことで、たくさんの幸せと自由と喜びも得たのだよな、と思い返しています。
けれど、次の瞬間、一緒にいることで得るはずだったものとは、もしかしたら比べものにならないのかもしれない、と思ってしまうのです。
私はだいぶ前から二人目が欲しかったので、早く合流したかったのだけど、それも向こうの都合や私のタイミングが合わず、
春節で帰国したあいつのせいだ、と憤り、
憤る私に、何やってんだ、ってずっと突っ込んでいます。
でも、それも幻想なのかも?
私が今苦しいのは、「一緒にいない」ということ。お互い、動く努力ができたはずなのに、それをしてこなかった。
なんだか、それは「夫婦として失格」と言われているような気もして、
逆に、ただ甘いラブストーリーを夢見ていただけなような気もして、
自分の幼稚さに失笑するしかないのですが、
でも、「一緒にいなきゃいけない」っていうのも、やっぱり幻想かもしれない、と、こだまさんの小説を読んで、思いました。
一緒にいても、いなくても、そこに「信頼」があれば、いいのでは?
ものすごく薄っぺらく聞こえることを言っていますが、
それだけだと人間関係は成り立つけれど、夫婦関係は成り立たないのか? では夫婦関係とはなんなのか? 人間同士の繋がりと何が違うのか?
とか思っています。なぜなら、私たち夫婦は、多分一生お互いを裏切ることはないだろうと思うからです。体は知らんけど。心ではね。
性を超えた結婚も、ようやく認められるようになってきた今、
どこの国の人と結婚しようが、誰とどういう形で暮らしを作ろうが、
なんだか、人ってもっと自由に、愛し合っていいのにな。
私は、こだまさんの言葉から、そんな未来を受け取りました。一生懸命考えてたどり着いた誰かの選択を、「そうなんだね」って受け止められる社会を作りたい。
だから、私は、自分を責めるのをやめます。堂々と生きていきたい。
ただ、自分自身の問題としては、まだ取り組まなきゃいけないことがあるような気がするので、もうしばらくこの別居に向き合って見るつもりです。
一緒にあゆみを揃えて、お互い応援しあえるパートナーになりたい、と言うのは、私の本心だし、願いです。
だとしたら、この状況が生まれている私自身が、まずは自分を信頼すべきなんだろうと思います。
コロナとか距離とか、本当は関係がない。立て直す必要があるのは、きっと自分です。
この1年かけて、やっと少しだけ、自分だけは、自分の味方でいてやりたい、と素直に思えるようになりました。何があっても、何を選んでも、私は私を心から応援したい。
まだブレますけどね、、、頑張ります。
今年からドラマ化されたんですね!漫画もあるみたい。ぜひ。