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R・ヴォウズ著、標珠実訳『禁書目録の歴史』

 短歌結社誌『水甕』2025年2月号に「新刊紹介」として掲載された文章に加筆したものです。

 短歌結社『水甕』編集委員の標(しめぎ)珠実さんが翻訳者として『禁書目録の歴史―カトリック教会四百年の闘い』(白水社)(原題 The Index of Prohibited Books: Four Centuries of Struggle over Word and Image for the Greater Glory of God)を上梓なされた。著者のロビン・ヴォウズ Robin Vose は宗教史専門のカナダ在住の大学教授で、本書は主に十六世紀から二十世紀にかけてのローマ・カトリック(キリスト教の最大宗派)の検閲の歴史を扱っている。ここでご紹介するのは、訳者が水甕の人だからではなく、この本の主題が私たちの短歌人生にも深く関わるからだ。

 民主主義には表現の自由の保障が不可欠だ。権力者が表現に検閲をかけようとすると、表現の自由ひいては民主主義が損なわれる。それはジャーナリストや名のある作家だけでなく、私のようなアマチュアの細々とした短歌創作にも影響してくる。じじつ、水甕社も戦時中の軍部による検閲と、戦後の進駐軍による検閲に悩まされ、結社存続の危機を乗り越えてきた[1]。著者も訳者も現代とは決して無関係ではない歴史として、この特殊な領域に向き合っている[2]。

「禁書目録」とは文字通り、流通させてはならない書物のリストのことだ。禁書目録成立以前にも、カトリック教会は異教や異端を排除しようとし、十三世紀には異端審問のための制度ができあがった。しかし、十五世紀の大量印刷技術の出現と、教会の中での異端運動の連続的発生によって(カトリック教会にとっての)危険な思想が広まるのを恐れ、検閲をいかに行うかを模索するようになる。

 一五一七年以降の宗教改革によってカトリック勢力は一層の検閲を指向し、十六世紀に総本山のローマを含めカトリック圏の各地域に禁書目録などの検閲体制を設けた。禁書目録は二十世紀まで作成されたが、一九六六年に廃止された。

 検閲と聞けば古代中国の焚書坑儒や、魔女狩りを想像する人もいるだろう。本書も火刑にされたジョルダーノ・ブルーノの話が出ている。科学少年だった人はガリレオ・ガリレイの受難を思って涙し、迷信に囚われた時代遅れの権力としてキリスト教を憎んだかもしれない。しかし、本書ではブルーノやガリレオに言及しながらも一般的なイメージを丁寧にほぐし、同時にカトリックによる検閲の迷走ぶりを見せる。

 禁書目録は持ち運びやすいサイズから分厚い本へと変わりリストが長大化していく。ヨーロッパが大量印刷時代に突入し本の市場が形成され、検閲すべき本が増加していったからだ。また、検閲の担当部署や担当者によって検閲の基準が一定せず、カトリック圏の中でも混乱があったようだ。さらに時代や状況によっては検閲が甘かったり、逆に厳しくなったり、検閲の対象が変化したり増えたりと、検閲の方法が一貫しなかった。つまり、検閲に公平性は担保されず、常に恣意的であった。しかも近代に入ると、自然科学や人文科学もカトリックの保守性への脅威となっていった。近代への進行が禁書目録を生み出し、かつ混乱と終焉に導いたのである。

 そして、このような当局によるアドホックな態度は、出版側による自主規制を生んでいる。日本での松文館裁判[3]を想起したのは私だけではあるまい。当局のいい加減な検閲は、かえって私たちの表現活動の自粛を産んでしまうのである。

 宗教裁判にかけられたというガリレオの有名な逸話については、そもそも前近代では科学と魔術は区別がつかなかったという歴史的背景から説明し、科学も魔術も決して一様に弾圧されたわけではないことを明らかにした。そして、ガリレオの置かれた複雑な政治的状況により、地動説の主張のみで失脚したわけではないことを説明する。つまり、検閲は政治的趨勢によっても基準が変わった。そして、ブルーノのような例は稀であり、男性たちは自らの本が禁書目録に掲載されても、彼のような苛酷な処刑を受けることはなかった[4]。

検閲する側もされる側も自らこそが正義と信じて行動するという主観的態度を見せていた[5]。現代でも高齢者差別、排外主義などの反人権的思想を持つ人々はそれこそが正義と信じ、ネットやデモで主張を繰り返し、時には反論する人々に対して「物理的に」対抗しようとする。人権保護を主張する人々も、目指すは相手の「説得」または排除である。然すれば公権力がどの主張を採用するか(そしてどの主張を規制するか)で世界の在り方は大きく変わることになる。だからこそ人々は表現の自由の保障を手放してはならず、反人権的な主張と表現(それは表現というより脅迫かもしれない)に対しては、批評の自由をもって毅然とする必要がある。どの頁をめくっても必ず現代の私たちに問い続ける良書である。

 本書のもう一つの魅力は、標さんによる訳文だ。おそらくは最大限の注意を払って正確に、なおかつ読みやすい日本語で書かれた文章は、私にとっての異教と外国の歴史を身近なものにしてくれた。



[1] 詳細については水甕社ホームページより「対談『検閲の実際』または『水甕』二〇一九年八月号を参照のこと。

[2] 本書の「はじめに」「終わりに」また「訳者あとがき」にて、両者の考えが示されている。

[3] 二〇〇二年に松文館から発行された成人向け漫画がわいせつ物にあたるとして、同社の社長らが逮捕された。しかし、他の出版物や表現作品を置いて検挙されたことについて、見せしめではないかとの見解がある。

[4] 対照的に、十八世紀まで多くの女性たちが魔女狩りにより処刑された。ただし、近世以降は宗教権力による異端審問ではなく民衆間での私刑が主流で、原因としては個人間トラブルや集団ヒステリーなどが考えられている。

[5] 「訳者あとがき」によれば、原著の副題は「より大いなる神の栄光のための、言葉と図像をめぐる四百年の闘い」と訳すのだが、都合でカットしたという。

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