国のアイデンティティが失われる時
2015年に見た光景
東日本大震災の復興事業に携わり、
2015年に三陸海岸を訪れた時の写真。
伝承しなくちゃいけない出来事
目に焼き付くとはこういうことかと思う。
記憶は鮮明で、その時の気持ちもありありと思い出すことができ、何度でもその時と同じ涙が出てくる。
ニュースで何度も耳にした小学校の話を
バスガイドさんが語り、
みんなが避難した神社をバスから確認する。
バスの中で、最前列に一人で座っていた私は嗚咽をこらえたが、本当は大声で泣きたかった。
あの時我慢したから、今も書きながら泣いてしまうのではないかとさえ思ったりする。
流された個人のモノも、ミュージアムのものも、
あらゆるものが学校に一時保管されていた。
ミュージアムの所蔵品は、
泥を落とし、塩分含有量を計測しながら塩分を抜く。
それをワークショップでみんなで体験した。
それだけでも途方も無い作業量で、
何十年続くのだろうと目の先が真っ暗になる気分だった。
それでも、国として必要な作業だ。
それでも、国として必要な作業なんだ。
一つ一つ泥を落として、保存状態を良くして、保管する。
何万点?何十、何百万点にもなりそうだった。
でも、絶対に必要なこと。なぜなら、
その国の過去がわからなくなった時、国のアイデンティティは失われる。
国の過去を知る者が居なくなった時、文化は途絶える。
日本の文化は世界でも特異だ。
1500年も続く神事も、今に生きる神殿があることも、各県に特徴づけられる高度な技術と一様でない風習が存在して、変わらぬ形で今現在と継承されていることも、世界では稀なのだ。
その高い文明こそが国の誇りであり、日本らしさだ。
その過去から続いてきたという歴史を辿れなくなった時、未来に継承できなくなった時、日本は日本らしさを失う。
それも、知らない所で少しづつ失われるから気づかない。
知らない内に消滅してしまう。
きっと、未来に生きる人は気が付きもしない。
だから、今、生きる自分達が、子ども達に何を残したいと思うか、日本に(いや、生まれ育った土地とか風習でもいい、もっと言えば畳とか、着物とか、祭りとかそんなことでもいい)、そういう日本の独自性にどれだけの愛着を持って後世に残したいと思うか、その気持ちに掛かっている。
モノは劣化し、人は死ぬのだから、自然に身を委ねれば、そんなに遠くはない将来に失われるものは多い。
戦争でも大災害でも、失う理由に関係なく、無くなればその国はその国で居られなくなる。
実はGHQの政策が今の私達にどんな影響を与えたかを知れば知る程、戦争の恐ろしさを知る。
国が衰退するということを感じずにはいられなくなる。
世界を感じられるようになったから。
あー、でも、アートとか文化とかを楽しむには、
未来の為に活動するには、今、世界が平和でないとだめなんだ。
昔から芸術が栄え盛り上がるのは、平和な時だ。
もう世界は繋がってるから、国境なんて関係なく繋がってしまっているから、
私たちこ本当の幸せは、世界規模になってしまった。
どうか早く世界が平和になりますように。