「例外状況」が悲劇を喜劇に「例外状態」を生んだ=マスクをしたアンティゴネという逆説
カール・シュミットが「例外状況」で認めた
行政の非常事態時の決断が
ナチズムへと導いたことを我々は忘れたのかと
アガンペンは
社会的「顔」よりも
「身体」的な「剥き出しの生」
=生物学的「生存」が優先される
「例外状態」を批判
人と人の間に距離が要求されたコロナ禍
これほどまでに
身体的「生」と
精神的「生」が
断絶した時代はなかったろう。
ソポクレスによるオイディプス三部作
「オイディプス」
「コロノスのオイディプス」
「アンティゴネ」
オイディプスの娘 近親相姦でできた娘として
呪われた家系に生まれたアンティゴネ
は
家族=兄の埋葬を 禁じられても
死しても 譲らなかった
愛するフィアンセがいたともいうのに🥲
そして
現代のクレオン(行政)も
アンティゴネ(親族)が身内の埋葬を死守するのを
禁じた
ため
マスクを着用しながら
兄の埋葬を請う「アンティゴネ」が
コロナ禍のシアターで生まれた
これは
悲劇 か 喜劇か?
偶然 か 必然か (笑)
アンティゴネを知る我々は
勇敢な彼女ほど
同一性に固執し
「マスク」=「仮面」から遠い人はいない
ということを知っている
だから
「マスク」をしたアンティゴネに笑えるのだ
顔を隠し
匿名となったアンティゴネ
あり得ない🤣
例外状況が生んだ例外状態
ブレヒトによるアンティゴネ降臨🌟
マスク(仮面) をし匿名となった
アンティゴネは「われら」 の問題として
近づき
その「遠い」喜劇が
「遠い」悲劇に
一層の効果を付与する
ここで
プラトンによる 悲劇や喜劇 の定義に
触れなければならない
悲劇や喜劇が
悲しく 可笑しいのは
「真実から遠く離れたところ」に行くため
の悲しみ であり 笑い
と「国家」で論じ
それらは
「真実でもないことために仲間となり友なるもの」
(「国家」(603AーB)
であることから理知を鈍らせるものとして
批判している
しかし 上記で確認した通り
コロナ禍という「悲劇」の 例外状況は
マスクをしたあり得ないアンティゴネ
という「遠い」存在を生み 喜劇として復活
その「遠い」ギリシャ悲劇存在の
普遍性を我々の心に刻むという
例外状態を生んだ
アリストテレスがプラトンに「詩学」で反論
している通りなのである
アリストテレスは
真実から遠い 悲劇や喜劇であろうとも
その 激情=同化=ミメーシス を 通して
認知がさらに研ぎ澄まされるとして
泣いて笑う 悲劇や喜劇に
カタルシス効果を認めたのだ
しかしながら
ナチズム、スターリニズム、マッカーシズム
を生き延びた 上記 現代版
マスクを被り 隠れた「アンティゴネ」
を描いたブレヒトは
アリストテレスに反駁
「ない」ものから「ある」ものを作る
作家の指名とは
「ある」ものから「ない」ものを意識させ
消去させる
「異化効果」をもたらすもの
であらねばならぬ
として
一時的であっても 「同化」の危険性を喚起している
ブレヒトは
その意味では
ナチズム、スターリニズム、マッカーシズムを
経た現代版アリストテレス
プラトンのように劇を禁じるのではなく
同時に
反アリストテレス=
「同化」には
当たり前が当たり前でなく
見えるも見えない
聞こえるも聞こえない
ことが 見えないし 聞こえない
そこで
「ない」アンティゴネから
「ある」ものを作った
逆説的ブレヒトの創作した
「異化」効果をもたらす現代版 悲劇
アンティゴネが生まれた
これには
「引く」であろう?
あるものがないものを生み
見えないものが 見え
聞こえないものが 聞こえ
あるものから ないものに
気づけたのではなかろうか
我々はオイディプスが
「コロノスのオイディプス」で言う通り
聞こえすぎて聞こえない
見えすぎて見えない
聴覚障害者であり 視覚障害者
「無」知 (ソクラテス) なる われら
我が盲目の
愛するポメラニアン「くうちゃん」
が死す時
彼女が 見ていたのは 私の目であり
私が 見ていたのは 彼女の心臓だった
くうちゃんには見えていた
盲目は私だったのだ