寒山拾得という格好いい生き方「寒山と拾得が銀座通りを歩いている」?
1: 漱石のシーツの仕切りと三島由紀夫の白い距離
逆ナンされた 夏目漱石「三四郎」は
訳あって
魔性の女と宿屋を共にする
も
「婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気」
もなく
敷かれた蒲団も一枚
やばい😅
「ノミ対策」という偽善で
男と女の間に仕切りを拵え
1夜を乗り切った三四郎
のことは前にも書いた
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」
女は👩怖い😨
女性不信が漱石作品の根底に流れている
三島由紀夫「金閣寺」にも
布団による白い仕切りが登場するのをご存知だろうか
同じく女性不信の象徴
女性への距離 として
母が同じ蚊帳の中で
親戚の叔父さんと交わっている
そこから心象の金閣と現実の金閣が
解離してしまった少年
母が 知っている母ではない
母 ≠ 母
この
辻褄合わせのためには
現実=金閣寺=現実に見た母を 焼く=変える
以外に
少年は
金閣=金閣
母=母を
生き得なかった
そして
「金閣寺」エンディング
「生きようと私は思った」のである
母とは誰か?
その辻褄合わせを
認識のみでなく行動で徹底した少年
金閣寺焼却=死をもってしか
母は愛する母=絶対に達し得なかった
犯罪者という同一性
犯罪者=犯罪者という間違えようがない
絶対的な同一性を通して
信じるべき者を信じ抜いた少年の結末は
夏目漱石が
1: 宗教
2: 狂気
3:死へと逃避し
4: 死んで生きることを選んだのに同じ
漱石の遺作となる「明暗」において
漱石は変わったと柄谷行人氏が「漱石論集成」で
言う通り
漱石は他者の他者性に距離を置けるようになった
夫は夫ではない
清子は清子ではない
「明暗」における目まぐるしい多声のなか
諦念の境地が垣間見える遺作
の境地に若年で到達した
平野啓一郎が
漱石の「こころ」と同名のタイトルに
しようか迷ったという
明日 11/8公開の映画「本心」も
母は母ではない
父とは誰なのか
理想の母をAIで形成し
現実の母や父の他者性を受け入れていく物語
もちろん
映画と物語は違う
でも主演の池松壮亮が原作を読み
作者に直談判して映画化が実現した物語
誰とは誰なのか
寒山拾得とは誰ぞ?
色んな寒山拾得があっちこちにいる
それでいいのだ
平野氏は「分人」という造語を作った
2: 「寒山と拾得が銀座通りを歩いている」?
寒山と拾得とは誰か?
多種多様な寒山拾得がいる
ググってみてください
下↓は横尾忠則の「寒山拾得」の一例
他にも横尾による多様な寒山拾得がある
寒山=X
拾得=X
寺の厨の掃除をしながら
残飯をわけてもらい生きている2人
拾得が普賢で
寒山が文殊?
側に長くおる者も
誰もそうだと気づかない
でも そう聞いたから…
と訪ね者が
「芝居を見て、どの役がどの俳優かと
思い惑うときのような気分」で
寒山と拾得に会いに来た。 (森鴎外「寒山拾得」)
横尾忠則 寒山拾得 ならぬ百得展
神戸で今年夏まで展覧があった。
横尾は
XをXとして扱い
Xはつねに
それ以上でもそれ以下でもなかった
平野啓一郎は
なぜ書くのか? 正気を保つため
と言っているが
X=X そのX性が芸術なのだ
森鴎外は子どもに「寒山拾得」の
説明を求められ
困ったそうだ
「子供に物を問われて困ることは
たびたびである。
寒山詩が所々で活字本にして出されるので、
私のうちの子供が
その広告を読んで
買ってもらいたいと言った。」
「それは漢字ばかりで書いた本で、
お前にはまだ読めない」と言うと、
重ねて「どんなことが書いてあります」と問う
ので鴎外は
こう答えた
「宮崎さんはメッシアス(メシア=救世主)
だと自分で言っていて
また
そのメッシアスを拝みに往く人もあるから」
「宮崎さん=メッシアス
ということにされる」
「実はパパアも文殊なのだが、
まだ誰も拝みに来ないのだよ」
(森鴎外「寒山拾得縁起」)
これが世間に
「心なし」と
酷評された鴎外である
鴎外とは鴎外でしかないのであるが
翻訳に精を出していると
イコール
創作性がない
西洋の借り物
鴎外は物が書けない云々言われる
他者は色々言う
色んな寒山拾得
間違えた
色んな鴎外がいるのだ
鴎外は
Aをすれば
していないBや
できていないC
「出来ない事」=「慰みにする」社会に
「構わずに置いてくれれば…」と
愚痴っている。
(森鴎外「不思議な鏡」「かのように」)
昼は官僚、夜に執筆という生活をしていたからだ
鴎外作品のタイトルからも
彼の性質を推測することもできる
「あそび」
「かのように」
彼には
執筆を続けたいが故に
官僚として対立や
他者との言い争いを
避けたかったという事情があった
詳細は以下をお読みください
鴎外は鴎外
寒山は寒山
拾得は拾得
それ以上でも以下でもない「X」
彼らが
普賢であろうが
文殊であろうが
誰であろうが
それは人のしゃべること
芥川龍之介の「寒山拾得」は最高にユーモラス🤭だ
寒山と拾得が
銀座通りや商工会議所の近くを歩いていた
そうな
誰も
寒山と拾得が 誰が誰のことか
会ったことも
交渉も 面識もなく
何も 分かってない
のに
人と人の間で
寒山拾得について
鴎外について
談義できる
人間って 愉快だ
だって
神だって 誰も会ったことないし
よく知らない
鴎外が 何者かをも
翻訳が何たるかをも
分からないで
みな
何者かと語れるのだからお見事
「家うちへ帰つたら早速、
漱石先生へ、
今日飯田橋で寒山拾得に遇つたと云ふ手紙を書かうと思つた」
漱石先生はその手紙を受けとって
なんと言ったであろうか 笑
3: 男=女で △=▽?
空海とガンジーの企て
ロマン主義にも反発して
自然主義も一つのイズムとして
(「イズムの功過」)
距離を置き
徹底して懐疑の姿勢を著し続け
自分が自分であろうとし続けた日本の夏目漱石
カッコいい❣️漱石
でも突き詰めたら気狂う💦
ガンジーなんてすごい👍行動の人
非暴力を徹底するために
妻との性関係も断って
男が「女」になれるか
「母」になれるのか
親族の幼女と同じ布団に寝て
成人まで育て上げ
いちいち公開するガンジー
を
世間は疑った
色んなガンジーが生まれた
ガンジーはガンジーではなかった
晩年のガンジーは孤独だった
「群衆という名の怪物」により
きれいはきたない
きたないはきれいとなるのだ
寒山拾得とは まさに何者ぞ
なのである
X=X
X ≠ X
空海だって聖人君子のように言われているが
「独りほくそえんでいたのは空海だと思いますよ」
とは山折哲雄氏
あーんもう
山折哲雄氏が小学校?中学校?の先生やったら
私 人生 変わってた💔
私は偶然 娘の高校がある京都の東寺に
娘との待ち合わせによく行ったので
空海が中国からもたらした両界曼荼羅に
ディープに触れ合う時間を持てた
男性原理の金剛界+女性原理の胎蔵界
ここまでは知っていたが…
その偶然が教えてくれたこと
「それはもう、遊廓の世界」
誰も
曼荼羅の
「そのイコンの一つ一つがどんな姿をしているか」
まで「見ない」
戦後になって
その両界曼荼羅一つ一つ研究され
菩薩や大日如来が
「婉然と笑ったコケティッシュな女の集団として描かれているということが明らかになった。」
これは山折哲雄曰く「空海の企て」
三角形△は
逆にして
逆三角形 ▽として
読まねばならなかった
まさに「ダヴィンチ・コード」日本版❣️
空海とは聖人君子などではなく
もっと
バリおもろい てか エロい奴
スンゲェーーーーーーーーーーが止まらない
空海は
皆が知ってる
空海ではない
何千年と時を超えて
皆を騙し続けてきているのである
我々は千年以上
「知らずに
それを礼拝の対象にしてきましたが
独りほくそえんでいたのは空海だと思いますよ。
空海は、そういうものと知りつつ、
それを瞑想対象、礼拝対象にしていたんですから。」
ガンジーにこんなユーモアがあれば
楽だったろうにな
群衆なんて
知らない対象 崇拝する怪物なんだから
男=女
△=▽
ガンジーと空海の企て 半端ない
詳細は山折哲雄「空海の企て」をどうぞ♡
4: ローマからアレクサンドリアへ ヒュパティアはヒュパティアではない
上記シェイクスピア引用
「群衆こそは権力を支える翼」
ガンジーをガンジーとし
ガンジーをガンジーでなくし
空海を空海とし
空海をほんとの空海でなくした我々
▽ を △ と
反対向きに見れない
反対物の一致を理解し得ない
群衆なれば
短期間で
ポンペイ →シーザー →ブルータス →アントニーと
支持を覆させ浮遊させる
そんなスピーディな群衆の
恐ろしさを描いた
シェイクスピア 「ジュリアス・シーザー」
を見てみよう
民衆の支持が
ポンペイからシーザーへと
180度逆転
したかと思いきや
今度は
シーザーからブルータスへ
次にアントニーの有名な演説によって
ブルータスからふたたび180度逆転して
アントニーへ
結論❣️
歴史とは
事実ではなく
移り気な
解釈の流れに過ぎない
同じく浮気なクレオパトラが
シーザーを捨て
アントニーに鞍替えしたことも有名だ
恋人シーザーに失望した理由?
の一つ
シーザーが
アリストテレスを家庭教師としたアレクサンダー大王が建設した
学術都市アレクサンドリアに攻め入り
アレクサンドリア図書館を消失させてしまったからだ
本を焼くか❓❓⁉️
書物を大切にしない男はセクシーではない❣️
ので
新恋人アントニーに乗り換え
当時 第二の大図書館があったベルガモンに
軍を送らせ、
20万 巻の蔵書を戦利品として
プレゼントさせた❤️
ほど
クレオパトラは
本好きだったのだ❣️
アントニーはゆえに
骨抜き
もはや
昔のアントニーでなくなったという
悲劇でもあるが…😢
つまり
ギリシャ アレクサンドリアに図書館❗️
すでに本作りが産業化していた👏し
写本を受け持つ職人がおり
売れっ子の作家には決まった出版社がついていて
組合まで存在したらしい
しかし
エリク・ド・グロリエの『書物の歴史』(大塚幸男訳 白水社)によると
ギリシャ・ローマ時代に確立した
出版の産業化は
キリスト教国教化
=独占化により廃れていく
図書館が焼かれ
学問が失われ
哲学者であり天文学者
地動説に気づいていたかもしれないとも言われるヒュパティアは
美しく聡明な女性だったというが
暴徒と化した狂信的キリスト教徒
により
魔女
として
皮を削がれ
その身体はバラバラにされ
アレクサンドリアという学術都市内で
見せ物とされ
焼かれたそうだ
ケンブリッジ大学で英文学を学んだ
女優 レイチェル・ワイズの演技があまりに迫真
でこの映画に痺れたが
なぜキリスト教を信じている者たちが
ヒュパティアをそこまで…???
それは
ヒュパティアが
バラバラにされるだけの
恐ろしい同一性
ヒュパティア=魔女
を保持していたとの観念=噂ゆえなのだが
本当は
ヒュパティア は ヒュパティア
バラバラなのはヒュパティアではなく
ヒュパティア「を」
バラバラ
ヒュパティア = 魔女 にした
大衆の
観念ー連合が
バラバラ ヒュパティア=魔女
これを
狂気
と呼んだのは
ジョン・ロック
観念連合の非合理性を
彼は
「人類にたいへんあまねく染み込んだ病毒」=「狂気」と「人間悟性論」第2巻33章で説いているのだ
戻ろう
アレクサンドリアで図書館
本作りが産業化
売れっ子の作家には決まった出版社
組合まで存在???
もう驚くことばかりで
ロマンに酔う
私は何故 映画 「アレクサンドリア」に痺れたのか
ロマン…
狂気とロマンは紙一重なのだ
グーテンベルクが発明した活版印刷技術
〇〇年とか 学校で暗記した
活版印刷技術により
ギリシアやローマの古典書が大量に出版され
人々の知識欲を満たし ルネッサンスが花開いた
読み書きも急速に普及し
宗教の庶民化を促進し
マルティン・ルターらによる宗教改革へと繋がった
とか
綺麗どころを
我々
学校で学びました🙋
でも
実は
自営業としてのグーテンベルク
儲からなかったらしく😓💦
売れる出版物を印刷しなければ
生きていけなかった
売れる出版物=
「聖書」であり
出版はキリスト教の独占産業と化し
検閲が出版の大衆化や公正性を妨げ
なんてことは
学校で学んでいない
我々は教室内で学んでいながら
教室という「枠」を
学んでいないのだ
教室 教える部屋 とは
教室ではない
だから
暴徒と化したキリスト教徒が
ヒュパティアをバラバラにしたのだ
教室というキリスト教=「枠」が見えていないからね
しかし
ヒュパティアは最期まで
ヒュパティアであることを貫き
皮を剥がれても
身体をバラバラに切断されても
彼女の統合された精神と身体は
ひとつに耐え抜いた
そうして
彼女が守ろうとしたものは
真実
アレクサンドリア
「そこは、真実が滅び去った場所」
かっこよすぎる😎ヒュパティア
5: アレクサンドリアからヴェルサイユへ アントワネットはアントワネットでない
ヒュパティアに同じく
同一性を
バラバラにされた
アントワネット=性的倒錯者、レズビアン
も
亡くなる直前
最も
マリー・アントワネットだった
というツヴァイクの伝記の文言を思い出す
彼女を
バラバラにしたのも
庶民のペン
メディアに扇動されて
ヴェルサイユへ真っ先に行進した
させられたのは
ヒステリー状態に陥った女性たち
女性のヒステリーが
革命に巧みに利用されたのだ
そして
フランス革命で
バラバラにされたアントワネットの同一性
男性といれば色情狂と言われるから
女性と仲良くすればレズビアン
子どもと独立した静かな時をゆったり持てば
今度は寂しくて性虐待してる性虐待者
夫の性的不能➕
フェルゼンという彼氏がいただけなのに😢
でも
ルソー「エロイーズ」の
最も自然な不自然
な庭
不自然=
「自然に似せた小川のせせらぎの音」
を
「マルリーから二千フィートの導管で水を引き」
ヴェルサイユで実現してしまったのだから
「この管を通って巨額の金も流れ去って」
アントワネットの同一性も
非同一
自然=不自然とされてしまった
自業自得ともいえる💦ジャン・ジャック・ルソー遊び
ルソーの書物は当時バカ売れしたらしい
でも
キリスト教会からしたら お尋ね者
自然に帰れ の
ルソー思想を尊敬するヒュームが
ルソーを助けにフランスへ
当時
ヒュームもフランスで
大人気
アントワネットの旦那様=
国王もヒュームに会ったそうだが
国王がファンの
ヒュームが分析した
観念連合の非論理性
が
フランス国王と王妃の首を刎ねた
という矛盾が
悲しい😢
アレクサンドリアからヴェルサイユへ
これは
狂気かロマンか?
いまでも
浅間山の噴火や
アイスランドのラキ火山の噴火が
フランス革命の火種となったというひとも
いる
なんでもありっちゃ
なんでもありだし
その想像は時空を超えるロマンかもしれない
ブラジルで1匹の蝶が羽ばたくと
テキサスで竜巻が起こる?
初期値が違えば 小さなことが連鎖して
全く異なる結果へ至るバタフライ効果を
主張する
ローレンツのカオス理論
で言っても
不作に続く浅間山噴火は
商業重視政策の田沼意次没落の原因である
てとこまでは論理的にフォローできても
フランス革命まではなかなか観念の連合は難😓
でも
これをロマン
と定義した人が実際にもいる
カール・シュミットである
シュミットは
マリー・アントワネットに
謁見したと言われているモーツァルトの
奇怪な観念連合を例に挙げる
モーツアルトは
オレンジ からの観念の連合で
オペラの曲
「たがいに手を取り合って』(ドン・ジョヴァンニ)
を作曲したそうだが
この連合が合理的なものであれば
モーツアルトは天才でもなく
それは「ロマン」とも呼ばれないのであろう
合一を非合一なものと
自由に連合する
観念の因果不適合性
「われ思う…」を
シュミットは
ロマン主義と
定義し
ナチスのイデオローグとして活躍
(「政治理論とロマン主義」や「政治的ロマン主義」参照)
6: ヴェルサイユ から アウシュビッツへ ヒトラーがヒトラーとなる時 終わるアウシュビッツ
ヒトラーも巧みに
自身の「友」となりうる理論を取り入れ
ヒトラーはヒトラーでない者として
「敵」=ユダヤを通して
ひとびとの崇拝対象に
ナチズムという「例外状況」における
政権掌握につながった (シュミット友敵理論 参照)
ことは周知の事実
ヒトラーという人は
あの人と友でいたら 良いことが…
そう思わせる人であったそうだ
つまり
ひとは
ヒトラーをヒトラーでない者として
崇拝
ヒトラーがヒトラーであることが明らかとなり
ヒトラーがヒトラーと一致した時
その
狂気は終わりを告げた
でもそれは
第一次対戦後の
不当なヴェルサイユ条約が生んだ
ドイツのロマンだったのかもしれない
その狂気とロマンが
ヒトラー=ヒトラーで
終焉したのだ
7: ロマン主義という非同一性のドラマ VS 筋のない客観性の狂気
ヒトラーはヒトラーでない
者として
アウシュビッツが
ヒュパティアもヒュパティアでない
ヒュパティア=魔女で
魔女狩り
アントワネットもアントワネットでない
アントワネット=不倫 倒錯的色情狂、レズビアンとして革命勃発
→ベルサイユのバラ
歴史「ロマン」
や
「狂気」は
誰かが誰かでない者とされた時に
生まれ
誰かが誰かであると一致した時
消える
合一を非合一とする「われ思う」
はロマン であり
狂気
だから
ローレンス・スターンが
脈絡なしの小説を書き
自由書き込み欄を作り
読者にご自由にどうぞと言った
牧師たる謙虚さ?が
形成した文学
「トリストラム・シャンディ」が
面白いのは❣️
観念連合のロマンが孕む狂気を
最もミニマムにした試み=
筋が無い小説=スターンの文学
こそが
最も狂気に見えるという皮肉である
ヒュームー&ルソーの時代ならではの努力
他者の他者性をマックスに重んじた
最もローリスクで
客観的
=
謙虚な作品が
最も狂気に見えるのである
日本における
筋が無い小説は小説ではないという谷崎潤一郎と
芥川龍之介のバトルを思い出す
「文芸的な、余りに文芸的な」(芥川龍之介)参照
「筋」は
方向性=狂気という「枠」へも導くが
ロマンも孕む
プラトンの「神の国」は
彼岸にあるのではなく
此岸=地にある
ジョン・ミルトンの「失楽園」も
上下逆さまに読め得るし
三島由紀夫が
現実 母≠母 を
変えられなければ
認識のみならず行動で
現実の母=金閣を消失させ
理想=ロマンに生きることを選んだのに同じで
人民は自助努力で幸せを
此岸で掴むことが可能になったと
トーマス・アクィナス及びキリスト教会は
アリストテレスを援用し
巧みに「ネジを回転」
できた「筋」は
「宗教改革」「産業革命」「フランス革命」へと
繋がり
マックス・ウェーバーによる「プロ倫」
キリスト教を
資本主義を 宗教のように崇拝する我ら
はその
「枠」に気づかない
バートランド・ラッセルがいうように
「到達すべき結論(=枠)が
あらかじめ定められているのだから、
ある意味では理性に訴えることは不誠実」
(市井三郎訳「西洋哲学史 中巻」)
でも これこそが「ロマン」というシュミット
シュミットの理論が
なぜナチスに「友」のように見えたのか
考えねば
我々は教室という「枠」で
常識という「枠」で
何を学ばなかったのか
何を知り得ていないのか
を知ることはできない
「寒山拾得」はそれを示唆している
森鴎外の「寒山拾得」のエンディング
寒山と拾得は「〇〇がしゃべったな」と
ケタケタ笑って退散する
初対面 見ず知らずの
人間が崇拝してくるからである笑
空海が
知らない対象を拝んでいる我々を嘲笑ってたかのように
8: 寒山拾得という 格好いい生き方とは?
では何に忠実に生きれば良いのだろう
エドガー・アラン・ポーの「告げ口心臓」を
思い出そう
バラバラ殺人に成功したのに
自身の心がバラバラだったから
自分の心臓の鼓動を
爺さんの心臓の鼓動と間違え
爺さんが
死んだ のに 生きている
と
パニクって
お縄である😢
「我を聞く」ことを怠ったがため
身体の「震え」を
閉じ込めようとしても
身体が「告げ口」してくるからだ
爺さんはとうにバラバラだったのだが
自身の心がバラバラ=解離してるから
自ら殺人をバラしてしまった💦
悪魔とは認められない自分を他者に見る
が
身体=体感は嘘を吐けない
崇高なる自然の前で「震え」
大好きな人に「しびれる」オーガズム
にフェイクはできない
自身は自身に
そのものがそのものに
自然に
最も近く等しい時
最も
「格好がいい」 といえるのかもしれない
「あたかもよし」と
距離を置きながら
X=X
冷静に分析できる客観性の静けさとユーモア
何を崇拝しているのか知らずに崇拝している我々を
空海が
ほくそ笑っているのに同じく
寒山と拾得も
いつも 笑ってる
そんな
寒山 や 拾得
そして
空海や
スターンのユーモアが秀悦なのだ
以前に
聖母は 微笑むが 笑わない という寄稿をしたが
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」で
守り抜こうとされたのは
アリストテレス「詩学」中の「笑い」の肯定
ボッカチオがなぜ「デカメロン」を
ペストが蔓延する14世紀フィレンツェ郊外で書いたのか?それを私はコロナ禍で読了 ゲラゲラ笑った
アガンペンが
「剥き出しの生」
生命=身体管理に政治が関わった時
ヒステリーパニックのようなものが起きる
と言ったが
そこに必要だったのは「笑い」
ナチズムでもそうだし
コロナ禍でもそう
精神と肉体が「バラバラ」
身体だけコントロールされると
心は惑う
いまや
無意識と呼ばれてきたものが「身体」のことだと
分かってきたからだ
(ピーター・A・ラヴィーン参照)
現代の行政(クレオン)は
家族(オィディプスの娘アンティゴネ)が
身内の埋葬を死守するのを禁じたので
マスクを着用しながら兄の埋葬を請う「アンティゴネ」がコロナ禍のシアターで「実現」したが
これは意図された喜劇ではない。
「例外状況」における行政の命令が
悲劇を
喜劇へ変え
悲劇を乗り越える力となったのだ
明日公開の 上述
映画
「本心」も楽しみだ
AIの母を通して
現実の母の本心に近づく
「格好」のテーマではないか?
そして
本日
「ペットを守る優しい大統領」
が
メシア=救世主の
「リザレクション」(復活)かのように
「憎悪と中傷に」明け暮れる選挙戦を経て
「報われない思いを抱く人々の怒り」
を燃料に
大統領に再選した (日本経済新聞 11/7)
ヒトラーに同じく
トランプも
トランプ=トランプと
トランプがトランプに一致した時
そのドラマは終わるであろう
それが悲劇ではなく
喜劇であってくれることを節に願っている
移民が犬や猫を食べる?
上の写真もトランプ氏による
「ペットを大切にする大統領」
アピールのために作られた合成写真
だそうだ
これは喜劇か悲劇か…
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