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「椅子取りゲーム」と「プレゼント交換」でぶった切る「構想主義」と「ポスト構造主義」「あのプレゼントの方がよかったのに…」
レストランでスパゲッティに毛が入ってる。
ホームセンターで何かを買った。
ひびが入ってると
クレームする者がなぜ
何百万も国に税として納め
疑問すら抱かないのか
納めただけ等価にお返しを
国からしてもらってるからか?
以下は辛坊治郎の2024/06/14Twitter(X)
イーロンマスクには比べるべくも無いが、税金払うために働いてる感じだなぁ。
公的年金はいまだに払うばかりで1円も受け取ってないし。このまま死んだら化けて出てやる!
例えばである。
ローソンで何百万手渡し
お返しを何十年後に渡します(年金)と
言われたり(同時交換の原理)
このお金は
「不幸な人のために使います」
と言われたら
「Fuck You」と言わないだろうか?
我々は
守られるため(贈答の答)
他者に掠奪されないため
国家に守られて
贈与と信用 負債と返答
税 の 交換として
何かが与えられていると
「信じている」
から
文句も言わない。
何百万と税金を支払い
その帰りに
40km速度規制の山の中
20kmオーバと言われ
スピード違反切られたり
また 国に何万も支払う
1時間1000円✖️8時間=8000円
何日も何日も働いたお金が
一瞬で消える
決してやりがいのある仕事ばかりでなく
ブルシット“Bull Shit”に耐えて耐えて.....
(グレーバー「ブルシット・ジョブ」)
でも実際の税金分
等価に交換されているのか
実証してみろ?
と国に問う人間は
精神異常者として病院送りされるだろう
ガリガリ君は
50円だった
今は
その約3倍
3倍美味しくなってるとは限らない
等価ではない 不等価だという人間は資本主義には生きていけない
マルクスは交換が
等価ではなく不等価であることを
資本論で指摘し
出会いのあるところ
不等価が等価とされる「場」
における不平等
(人間1人では交換は起きない)
問題は個人にはなく
社会にあるのではないか
と問うた人
マルクスという怪物の亡霊は漂い続け
個人を超えた社会的構造こそが考察すべき対象であるとした社会学の父とも言えるデュルケムを叔父にもつモース
や
その弟子
レヴィ゠ストロースを
代表とする「構造主義」は社会や文化の普遍的なパターン =構造に着目
マルクス理論が哲学的に継承され
不等価交換は
モースにおいて「贈与」として継承され
モースは「贈与論」を発表
レヴィ゠ストロースは師匠の理論をすすめて贈与を再度 「交換」と言い切った。
それを「交換」という概念で再度置き換えたレヴィ゠ストロースから連なる潮流がポストー構造主義を生んだ。だからポスト構造主義は一種のモースへの回帰
構造主義
マルセル・モース
レヴィ゠ストロース
ポスト構造主義
ドゥルーズ
デリダ
デリダ、ドゥルーズらに代表されるポスト構造主義は贈与における不等価性=差異に着目
でも実際のところ
不等価性 不平等性の解決はあるのか?
ひとつは
マルクスが追求したような
社会主義 という平和的解決
二つめ
「差」なんてない
「差」「別」なんて
みんな「普通」だよ
なんていう
相対主義や
ポストモダン
そして暴徒化しつつある
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)
そして
モース理論を追求すると
元 我が母校LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)教授 上記「ブルシット・ジョブ」で有名なグレーバーの主張するようなアナーキズムしかない
あれが欲しい
不等価交換=贈与
一種の「呪い」に繋がる
暴徒的「民主主義」
民主主義とは
実は平和を基盤に持つのではなく
「暴徒」の「力」「暴力」を起源とするからだ
これについては以下のグレーバーの著書
「民主主義の非西洋的起源について」をお読みください
民主主義は出会いのあるところ ひととひと、ある共同体とその他の共同体が出会うところ、その「間(Between)」において成立する「力」これが上記著書の副題
「Or, Democracy Emerges From the Spaces in Between」
でも
貨幣とはもともとは信託
貨幣に換算できない価値の移動=贈与
人生はプレゼント 贈り物の回し合い
プレゼント交換
ぐるぐる ぐるぐる回して
何が自分に回ってくるのか
金は天下の回りもの
価値も天下の回りもの
ある時 悪者にされたって
別の時には めちゃ良い思いしたり
悪があるから仕事が生まれ
裁判があるから弁護士が要る
これを言ったのはマンデヴィル
決してどこの政府 どこの国でも
教科書で教えない人(笑)
こういうことこそ教えられるべき
というところが
実は教科書で教えられてない
代理に
不等価にも
マンデヴィルの主張が
アダム・スミスの理論かのように
だいぶ穏やかにされ教科書で教えられてる。
だって
マンデヴィルの主張
まんま教えたら
誰も税金払わなくなるから
世はヴィトゲンシュタインのいうように
言語ゲーム
言語ゲームの中での
プレゼント交換
椅子取りゲームのようなもの
「場」の取り合い
オセロやチェスに同じ
「あっちのプレゼントがいい」
と言ったところで
場が決める。
心理学ではフロイトやらが
これを 転移 や投影(同一視) 倒錯 解離などの用語を用いて論じてる。
これが宗教=神の起源でもある(フォイエルバッハなど参照)
平野啓一郎が学生の時に書き
芥川賞を受賞した「日蝕」は民主主義の暴徒性と不等価を等価とする宗教性について見事に描いた作品。
マルクスはほんまに怪物 そして亡霊
最近 資本論を再読系の本が出まくってる。
(下記参照)
でもモース 可哀想
千葉雅也がモースで論文書こうかと思ったが
ドゥルーズにしたと。
千葉が言うようにもっと注目されるべき人物なのである。