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ジャン・ジャック・ルソー遊び: ヒューム=アダム・スミス?に遊ぶローレンス・スターン

フランス全土ですでに農民たちが結集している時

国王ルイ16世
お気に入りのディヴィッド・ヒュームの「英国史」を読み耽り
先駆者の実例に学び、
こうした不穏な状況で一番いいのは、
王が何もすべきで「ない」という決断を下していた。

そして
重税にあえぐ「本物」の田舎の人々が
ついに耐え難くなり
激怒しながら状況改善を要求しているその最中
マリー・アントワネット
偽物の田舎 トリアノンの建築のため
大建築家ミケと画家ユベール・ロベールに
下絵を描かせ
全体の設計図から二十もの石膏モデルが作られた後

藁葺き屋根や鶏小屋、肥料小屋を持つ、まさに田舎風そのままの農家八軒が建てられた。

マリー・アントワネット 上((角川文庫)」シュテファン・ツヴァイク,  中野 京子訳

何をしているのか?
ジャン・ジャック・ルソー遊びだ
自然
に帰れ
情念に正直に生きるための
トリアノン
という田舎の遊び場=
離宮の建設命令
ルソーの
新エロイーズ自然の庭の現実
情念という自然の実現
田舎コメディという「演劇

本物の農夫、本物の農婦、本物の牝牛をつれた本物の乳搾り娘、子牛、豚、ウサギ、羊、本物の草刈り人、収穫人、羊飼い、狩人、洗濯人、チーズ作り人

同上

らが雇い入れられ
「いっそうの真実味」が加えられ

彼らは草を刈り、洗濯し、肥料を撒き、乳を搾り、マリオネット人形みたいに絶えず陽気に動きまわる。

同上

自然に似せた小川のせせらぎの音…
それを聞かせるために
「マルリーから二千フィートの導管で水を引かねばならないし、この管を通って巨額の金も流れ去って」
しまったそうだが、

「偶然を装いながら
実はロマンティックな建築家の緻密な計算」のもと
全てが、
あまりに趣味よく優雅に混じりあっているので、
誰もそこに人為的なものを感じ取れないほど」
であったそうだ

ばかげた偽りの快適さが支配している」
ロココの真骨頂

羊を牧場へ連れてゆくのに青いリボンが使われ、王妃は女官が差しかける日傘の下で、洗濯女が川のせせらぎで布を洗っているのを見物する。ああ、何とすばらしい、この素朴さ、道徳的で快適で、どこも清潔で魅力的で、天国のような世界。人生は、牝牛の乳から迸り出るミルクみたいに明るく清らかだ。  人々は薄いモスリンの、田舎風の簡素な服(ただしその布は数千リーヴルかけて彩色してある)を着て、罪のない楽しみにふけり、これまでの享楽に飽き飽きして、「自然の味」に忠誠を誓う。魚を釣ったり、花を摘んだり、入りくんだ小道を散歩したり──ひとりのことはめったにないが──、牧場を走りまわったり、働く実直な農夫役者を見たり、ボール遊びをしたり、なめらかなタイル床の上でではなく花の上でメヌエットやガヴォットを踊ったり、樹幹にかけたブランコに乗ったり、中国の輪遊びをしたり、家と木陰の間でかくれんぼしたり…

同上

「緑の幾何学」に支配された
ルイ太陽王の
息苦しい人工的ヴェルサイユの力学構造からの脱出劇

新品の「田舎」という模造品が
「抜け目なく自然らしく
大金を投じて造られた自然=「偽物」に見えないように

ハンマーで叩いて壁にひび割れを入れ、漆喰をロマンティックに剝ぎ落とし、屋根板は何枚か取り外す。ユベール・ロベールは板に人工的な割れ目を作り、煙突を黒く燻して、全体を古びて朽ち果てた感じに見せかけ

同上

大枚が使われたそうな

ルソーの自然=情念は
マリー・アントワネットという代理による
最も高価なジャン・ジャック・ルソー遊び
が導く
最も暴力的なジャン・ジャック・ルソー遊び
=フランス革命を通して
成し遂げられたといえよう

皮肉なことに
アントワネットは
市民の情念を煽り
非同一
「あばずれ」
「性的倒錯者」
「性虐待者」
「レズビアン」を同一
非自然自然のアントワネット
とされ
ギロチンへと送られることになった。
市民もジャン・ジャック・ルソー遊びをしている
誰が責め得よう? 彼らも啓蒙されたのだ


「ルソーを読んだか?」
革命後のバルザックの主人公たちも
みな代理を通して情念を実現させていたのは
前稿で見た

ゴリオ爺さん

ラスティニャック

リュシアン

ド・リュバンブレ(リュシアンの貴族名)

ヴォートラン

ジャック・コラン

カルロス・エレーラ神父

どうやって?
暴力ではなく
ペン=言論を代理
自然を非自然
非自然を自然
へと
情念を形にし始めたのだ
フランス革命よりの教訓
お金のない市民が用い得たのは
新聞の
言論の力だった

革命は前進したがっている…  絶えざる進軍を鼓舞する太鼓は、新聞である。この革命の子、革命の悪童たちは、軍の先駆けとなって騒々しく奔放に走りまわる。例の抹消線が引かれたおかげで、何を書いても何を言っても自由になったのだが、この種の自由というものは最初、過剰で凶暴で過激になりがちだ。一〇、二〇、三〇、五〇の新聞が発刊される。ミラボーが一紙創刊すると、デムーラン、ブリッソー、ルスタロ、マラーが続き、それぞれ鳴り物入りで読者を勧誘して市民的愛国主義を競い合うので、勝手放題、噓をつき放題だ。国中が新聞のいうことしか聞かない。声は大きいほどいい、乱暴なほどいい、もっと大声だともっといい、あらゆる憎悪を宮廷に集めろ!  王は裏切りを企てている、政府は穀物輸入を妨げている、外国の軍隊が集会を蹴散らすためすぐそばまで来ている…

「マリー・アントワネット 下 (角川文庫)」シュテファン・ツヴァイク,  中野 京子訳

バルザックが「幻滅」で描いている通りなのだろう
その時期、
フランスに滞在していたデビッド・ヒューム
(国王ルイ16世のお気に入り:上記参照))
ルソー思想を信奉し、彼の英国への逃亡を助けた人でもある。(それが原因でルソーと揉めに揉めたが)


そんな彼が人格の
代理性」=「他律性」に気づかないわけがない。
ルソーの気まぐれや分裂的態度への応対の影響もあるかも???だが

ヒュームの人格概念は
その都度
ばらばら
他者反転的

つまり
他律的=非同一的であり

(例えば、上記バルザックにおいては
ヴォートラン=
ジャック・コラン=
カルロス・エレーラ神父…
日本では「分人」と訳されているby平野啓一郎)

英国のジョン・ロックのそれは
より一貫していて
自律的=同一的だ。

英国小説家
ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」が
とことんの
ばらばら=非同一無秩序狂気を契機にしながら
読み通すと
実は正反対
ジョン・ロックの「人間知性論」からの引用を通して
同一性
をメインテーマとして追求しているところ
さすが
ロックの国だ
(第2巻第33章3-4参照)

しかし、スターンは分かっていたのだ。
自然は他者反転しており
観念連合という
バラバラの狂気を孕んでいることを。
つまり
ヒューム理論=他者性
意識の流れ=バラバラな人格
を形にした小説
それが
ロレンス・スターンの
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」

そこでは
トリストラム・シャンディ氏は主人公ではなく
トリストラム・シャンディ以外の人物ばかりが語られる無方向性が顕著であり
トリストラム・シャンディ以外の口を通して
無秩序に語られる
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」が
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」なのだ

つまり
ルソーがルソーであったのは
ヒュームがヒュームであったのも
そして
ロックがロックで
スターンがスターンであったのも

「私の運命ではなくて、ひとつの世代全体の運命である」これはシュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界1』冒頭の有名な言葉だ。

スコットランドは
単独でスコットランドではなかった
そんな英国あってのスコットランド人たる
ヒュームのある文献の一部が実は
同じスコットランド人たるアダム・スミスが書いたのでは?
ヒューム = アダム・スミス?

と噂されていた時期があった。

神の見えざる手」(スミス)

宇宙のセメント」(ヒューム)
 (an Abstract of a Treatise of Human Nature  
 人間本性論摘要)
という類似概念 「他者性」が所以だ。
(後にケインズによりヒュームが著者であると確定された by 「ヒューム因果論の源泉」一ノ瀬正樹による解説 in ディビッド・ヒューム 「人間知性研究」)

もう一度 繰り返すが

ルソーがルソーであったのは
ヒュームがヒュームで
スミスがスミス
ロックがロックで
スターンがスターンであったのも

神の見えざる手」=「宇宙のセメント

牧師たるスターンは
そんな「動物精気」の見えざる仕業を
「笑い」に変え
人生を明るく説いた
そんな説教集がこれ❣️
ケンブリッジ大学出の
牧師がこんな(↓)
精子が主人公として始まる原稿をもって
出版社巡り📕
自費出版でもいいから😤
と必死になってる様子を
想像するだけで
笑えてしまうのではなかろうか

この私というものをしこむときに、もっと自分たちのしていることに気を配ってくれたらなあ、ということなのです。あの時の自分たちの営みがどれだけ大きな影響を持つことだったかを、二人が正当に考慮していたとしたら …その生き物の一家全体の将来の運命までもが、その二人の営みの時に一番支配的だった体液なり気分なりによって方向をきめられるかも知れないのだということまでをふくめて こういうすべてを二人が正当に考慮し計量して、それに基づいて事を進めていてさえくれたならば、この私という人間が、これから読者諸賢がだんだんとご覧になるであろう姿とは、まるでちがった姿をこの世にお示しすることになったろうと、私は信じて疑わないものです…
いったんこの動物精気というやつがある道を通って動き出したとなったら、これは決してどうでもよい問題ではありません そいつらはまるで気ちがいみたいになってガタガタまっしぐらに進んでゆきます。そして同じところを後から後からと進んでゆくうちに、やがてそこを、庭の通路のような平々坦々な道路にしてしまいます。そうなってしまってからでは、たとえ悪魔の力をもってしても、やつらをそこから追払うことは時にまったく不可能なのです。

—『トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫)』ロレンス・スターン,  朱牟田 夏雄訳

そして
last but not least
オランダで孤高にも
彼らの一世紀前に

ジョン・ロック 1632-1704
ヒューム 1711ー1776
ルソー 1712-1778
アダム・スミス 1723-1790
スピノザ 1632-77

人格の非同一性他者性
「神の見えざる手」
=「必然」について既に述べていたスピノザ
はやはり
凄すぎる🫢
詳しくは
カトリーヌ・マラブーの著書をお読みください
(千葉雅也がパリ大学で師事)

















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