ジャン・ジャック・ルソー遊び: ヒューム=アダム・スミス?に遊ぶローレンス・スターン
フランス全土ですでに農民たちが結集している時
国王ルイ16世は
お気に入りのディヴィッド・ヒュームの「英国史」を読み耽り
先駆者の実例に学び、
こうした不穏な状況で一番いいのは、
王が何もすべきで「ない」という決断を下していた。
そして
重税にあえぐ「本物」の田舎の人々が
ついに耐え難くなり
激怒しながら状況改善を要求しているその最中
マリー・アントワネットは
偽物の田舎 トリアノンの建築のため
大建築家ミケと画家ユベール・ロベールに
下絵を描かせ
全体の設計図から二十もの石膏モデルが作られた後
何をしているのか?
ジャン・ジャック・ルソー遊びだ
自然に帰れ
情念に正直に生きるための
トリアノン
という田舎の遊び場=
離宮の建設命令
ルソーの
「新エロイーズ」自然の庭の現実化
情念という自然の実現
田舎コメディという「演劇」
らが雇い入れられ
「いっそうの真実味」が加えられ
自然に似せた小川のせせらぎの音…
それを聞かせるために
「マルリーから二千フィートの導管で水を引かねばならないし、この管を通って巨額の金も流れ去って」
しまったそうだが、
「偶然を装いながら
実はロマンティックな建築家の緻密な計算」のもと
全てが、
あまりに趣味よく優雅に混じりあっているので、
誰もそこに人為的なものを感じ取れないほど」
であったそうだ
「ばかげた偽りの快適さが支配している」
ロココの真骨頂
「緑の幾何学」に支配された
ルイ太陽王の
息苦しい人工的ヴェルサイユの力学構造からの脱出劇
新品の「田舎」という模造品が
「抜け目なく自然らしく」
大金を投じて造られた自然=「偽物」に見えないように
大枚が使われたそうな
ルソーの自然=情念は
マリー・アントワネットという代理による
最も高価なジャン・ジャック・ルソー遊び
が導く
最も暴力的なジャン・ジャック・ルソー遊び
=フランス革命を通して
成し遂げられたといえよう
皮肉なことに
アントワネットは
市民の情念を煽り
非同一=
「あばずれ」
「性的倒錯者」
「性虐待者」
「レズビアン」を同一
非自然を自然のアントワネット
とされ
ギロチンへと送られることになった。
市民もジャン・ジャック・ルソー遊びをしている
誰が責め得よう? 彼らも啓蒙されたのだ
「ルソーを読んだか?」
革命後のバルザックの主人公たちも
みな代理を通して情念を実現させていたのは
前稿で見た
ゴリオ爺さん
=
ラスティニャック
=
リュシアン
=
ド・リュバンブレ(リュシアンの貴族名)
=
ヴォートラン
=
ジャック・コラン
=
カルロス・エレーラ神父
どうやって?
暴力ではなく
ペン=言論を代理に
自然を非自然に
非自然を自然へと
情念を形にし始めたのだ
フランス革命よりの教訓
お金のない市民が用い得たのは
新聞の
言論の力だった
バルザックが「幻滅」で描いている通りなのだろう
その時期、
フランスに滞在していたデビッド・ヒューム
(国王ルイ16世のお気に入り:上記参照))
ルソー思想を信奉し、彼の英国への逃亡を助けた人でもある。(それが原因でルソーと揉めに揉めたが)
そんな彼が人格の
「代理性」=「他律性」に気づかないわけがない。
ルソーの気まぐれや分裂的態度への応対の影響もあるかも???だが
ヒュームの人格概念は
その都度、
ばらばら
他者反転的
つまり
他律的=非同一的であり
(例えば、上記バルザックにおいては
ヴォートラン=
ジャック・コラン=
カルロス・エレーラ神父…
日本では「分人」と訳されているby平野啓一郎)
英国のジョン・ロックのそれは
より一貫していて
自律的=同一的だ。
英国小説家
ロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」が
とことんの
ばらばら=非同一的無秩序=狂気を契機にしながら
読み通すと
実は正反対
ジョン・ロックの「人間知性論」からの引用を通して
同一性
をメインテーマとして追求しているところ
さすが
ロックの国だ
(第2巻第33章3-4参照)
しかし、スターンは分かっていたのだ。
自然は他者反転しており
観念連合という
バラバラの狂気を孕んでいることを。
つまり
ヒューム理論=他者性
意識の流れ=バラバラな人格
を形にした小説
それが
ロレンス・スターンの
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」
そこでは
トリストラム・シャンディ氏は主人公ではなく
トリストラム・シャンディ以外の人物ばかりが語られる無方向性が顕著であり
トリストラム・シャンディ以外の口を通して
無秩序に語られる
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」が
「トリストラム・シャンディの生涯と意見」なのだ
つまり
ルソーがルソーであったのは
ヒュームがヒュームであったのも
そして
ロックがロックで
スターンがスターンであったのも
「私の運命ではなくて、ひとつの世代全体の運命である」これはシュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界1』冒頭の有名な言葉だ。
スコットランドは
単独でスコットランドではなかった
そんな英国あってのスコットランド人たる
ヒュームのある文献の一部が実は
同じスコットランド人たるアダム・スミスが書いたのでは?
ヒューム = アダム・スミス?
と噂されていた時期があった。
「神の見えざる手」(スミス)
=
「宇宙のセメント」(ヒューム)
(an Abstract of a Treatise of Human Nature
人間本性論摘要)
という類似概念 「他者性」が所以だ。
(後にケインズによりヒュームが著者であると確定された by 「ヒューム因果論の源泉」一ノ瀬正樹による解説 in ディビッド・ヒューム 「人間知性研究」)
もう一度 繰り返すが
ルソーがルソーであったのは
ヒュームがヒュームで
スミスがスミス
ロックがロックで
スターンがスターンであったのも
「神の見えざる手」=「宇宙のセメント」
牧師たるスターンは
そんな「動物精気」の見えざる仕業を
「笑い」に変え
人生を明るく説いた
そんな説教集がこれ❣️
ケンブリッジ大学出の
牧師がこんな(↓)
精子が主人公として始まる原稿をもって
出版社巡り📕
自費出版でもいいから😤
と必死になってる様子を
想像するだけで
笑えてしまうのではなかろうか
そして
last but not least
オランダで孤高にも
彼らの一世紀前に
ジョン・ロック 1632-1704
ヒューム 1711ー1776
ルソー 1712-1778
アダム・スミス 1723-1790
スピノザ 1632-77
人格の非同一性や他者性
「神の見えざる手」
=「必然」について既に述べていたスピノザ
はやはり
凄すぎる🫢
詳しくは
カトリーヌ・マラブーの著書をお読みください
(千葉雅也がパリ大学で師事)
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