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「漱石」が苦手な方へ これだけでわかる漱石パートII 「逃げる漱石」
1: 宗教に逃げる漱石
前期三部作
「三四郎」
「それから」
最終作「門」で安井の妻を奪い
御米と一緒になった宗助は
安井の妻=宗助の現妻
を放ったらかしに
参禅→山に引きこもり
宗教に逃避
彼の名は
宗教の「宗」に
逃避し
助けを求める「助」
「宗助」👍
旦那の身代わりの犠牲に
夫となった「それから」の代助の「それから」は
宗助の参禅❓⁉️
ネーミングいつも最高😊
妻を奪われた身代わりの犠牲者=安井が…
半途で学校を退いたという消息を耳にした。彼らは固より安井の前途を傷けた原因をなしたに違なかった。次に安井が郷里に帰ったという噂を聞いた。次に病気に罹って家に寝ているという報知を得た…最後に安井が満洲に行ったと云う音信が来た。
「何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆りやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。
宗助の心が安住することはない💦
「満洲行の方が嘘ではなかろうか
できるだけ手を回して、事の真疑を探り
続けた」
そうして
満州に去ったとかいうことで
安心していたと思いきや
或る関係から
安井が近隣に戻ってきたという情報を得た
宗助は「脇の下から汗が出た」
これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。
「その時の彼は他の事を考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた」
「遠くの方へ引越してしまおうと考えた。」
そして
妻を放っぽり出し
禅寺にこもり
御米から手紙が来ても返事も書かない
しかし
宗教に逃避 心酔しきってしまう
こともできない宗助の
「矛盾」
「私のようなものにはとうてい悟は開かれそうに有りません」
「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」
宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働をあえてするに適しない事を深く悲しんだ。
逃げることばかり考え
禅寺へこもったにもかかわらず
禅寺において考えることも
引越し=逃げることばかり
安井がもし坂井の家へ頻繁に出入でもするようになって、当分満洲へ帰らないとすれば、今のうちあの借家を引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別だろう。
参禅し
生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって
「山の中へ迷い込んだ」宗助は
山門の中の
信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進
がただただ羨ましかった
「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」
「あるわ」
「あなたは」と聞き返した。
宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。
彼らはなぜ
考えることをせず
思議なく
なぜ
ただただ信じることが
できるのであろうか
宗助は山を下りるしかなかった
彼は後を顧みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮ぎっていた。
信ずることができねば
現実に戻らねば
前に進まねばならない
漱石の頭を悩ます
思議に次ぐ思議がある限り
「信ずる」門の後ろの世界へはもう戻れない
門を開けてくれと他人を呼んだが
開けてくれる他者はいなかった
門は自分で開けねばならない
自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった…彼はどうしたらこの門の閂を開ける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜く思った。
彼は
門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
2: 狂気への逃避
自己から逃避し
山に入り
「宗」教に「助」けを求め
山に迷い
山を下った
「宗」「助」
「宗」教の「助」けが得られず
宗助は
「宗」「助」に到達できず
自己疎外状態で
「門」で立ち尽くす 宗助は
狂気へ
山を下りるも
現実適応に苦しみ
他者の他者性に相対して生きることも
できない
妻さえもが 信じられないからだ
後期三部作
「彼岸過迄」の次作
「行人」の一郎は
不倫をして一緒になった妻の節操が
信じられない😿
信じている弟の二郎に頼み込み
妻と和歌山で一夜を過ごし
妻と床を共にしろと命ず
ただただ
妻を信じたい❣️からだ
妻はやらない といえば やらない
妻が二郎を拒みさえすれば
絶対性へと到達できる
やらない=やらない
蟹に見惚れて蟹🦀になる絶対の境地を得たい一郎
ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那を捕えて、そこに二つの統一を見出す…つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、君の云う通りになるじゃないか」」
しかしながら
和歌山から帰宅した
二郎と妻を
「信じられない」一郎
「やったやろ?」
憤る二郎
「やったやろ?」
って
あんたが「やれ」と言ったのだ
そして
「やってない」と言っても
信じない一郎
二郎の「やってない」は
「やった」にしか聞こえない
やってない=やった
やはり
絶対の境地に到達できない一郎は
弟をなじる
やはり
「お前は信じられない」
いや
「信じる」から「やってくれ」妻を襲えって
言ったん あんたやのに
「やったやろ?」って☺️
結局
やってない=やった
絶対性という狂気への逃避も「行人」で失敗に終わり
後期三部作「行人」
次作
「こころ」でもまた
妻を置いて 自殺‼️
心の「牢屋」で
生きながら死に
あまりに苦しくて
死に安楽=生きた心地を求め
死を選んでしまった先生
3:死への逃避
自分は自分の勝手で、自分を殺しに此処まで来たんである
「こころ」で一度
生きながら死に
「死んだ」者
として「生きる」「坑夫」
東京を捨て
今度は
炭坑へお引越し‼️
ここでは
死が生であり
生が死なのだ
そこで出会った
「ある女と親しくなってー容易ならん罪を犯し」世俗世界を捨てた
死んだように生きる
安さん
安さんは坑夫の仕事はしているが、心までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯出る事ができないと云った。堕落の底に死んで活きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。」
4: 死んで生きる漱石
安さんを通して自分を見ている自分
安さん=自分=漱石
「自分のばらばらな魂」
が「ふらふら」
分裂しているのである
人間のうちで纏ったものは身体だけである。
「ふわふわの魂が五体のうちに、うろつきながら」
自分は肺の底が抜けて魂が逃げ出しそうなところを、ようやく呼びとめて、多少人間らしい了簡になって、宿の中へ顔を出したばかりであるから、魂が吸く息につれて、やっと胎内に舞い戻っただけで、まだふわふわしている。少しも落ちついていない。だからこの世にいても、この汽車から降りても、この停車場から出ても、またこの宿の真中に立っても、云わば魂がいやいやながら、義理に働いてくれたようなもので…
漱石の苦しみは此処にあるのだ
ばらばら
ふわふわ な自分
漱石とは「坑夫」の自分
「坑夫」の自分とは安さん
誰が誰?
自分が自分である
自明性=同一性=本名を
持ち合わせない
がゆえ
敬太郎が須永を探偵目線で客観( 「彼岸過迄」)
私が先生を描き
先生がKを
記号として「よそよそしく」離見するように (「こころ」)
自他の境界への敬意が欠落している
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない…私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」
ばかりか
時系列的にも分裂
今日の自分は
昨日の自分でなく
明日の自分でもない
ヒューム的
無責任な感覚の束
身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだ。
漱石がローレンス・スターンに影響を受け
書き始めた「吾輩は猫である」の頃から
成長がない筋書き
は進んでいるようで
進まない
それは
ばらばらで一貫性がなく
建設的でもあり得ないからだ
叔父さんが
死んだと思ったら
生きている
スターンの
「トリストラム・シャンディ」に同じく
「こころ」で
生きながら
死に
「坑夫」で
死んで 生に
自然=絶対
則天去私の境地を
ヒューム風に模索する
夏目漱石という人が
ヒューム=
反ジョン・ロック風に
ロックを
説かずに
説いた
ケンブリッジ大学卒業の
スターン牧師のユーモアを持ち合わせていれば
不在の逆説を
もっと楽に生きれただろうにな❤️🩹
「これだけで分かる漱石」パートI もどうぞ❣️