読書メモ 「ユートピア」
「ユートピア」
トマス・モア 著
平井正穂 訳
岩波文庫 1957年
それは新世界のどこかに存在する国家か、あるいはどこにもない幻の理想郷か。トマス・モアが思い描く「理想国」とは、いったい何だったのか。
貨幣がなく、財産の私有が認められない代わりに、効率的な労働で得られた潤沢な富を平等に分け合うこの共和国。生活、職業、戦争、宗教…、人々は独自の規律と自由を両立させて暮らしていた。しかし、そのあまりの公明正大さ、凹凸のなさ、言ってみれば透明な全体主義に、私などはかすかな胸糞の悪さを覚えてしまうのだが…。それはきっと、いろいろあるにせよ、今が平和であるからに違いない。
一人の船乗り、ラファエル・ヒスロデイに語らせたこのユートピアをモアがどう思っていたか、意見は分かれるところだろう。モアはヒスロデイによる報告という形式を貫き通し、自分の意見をほとんど表明していないからだ。ただ少なくとも、彼はユートピアを全面的に肯定してはいない。それは報告の最後を読むとわかる。しかし、おそらくこれはユートピアを現実世界にそのまま適用するのが不可能という意味で、そう言っているのだろう。
モアは、ユートピアを存在し得ない夢の国として皮肉混じりに書いたわけではないように見える。もしそう見える部分があるとするなら、実現への諦めの気持ちが、そこには混じっているからではないか。
やはりモアは、本音ではこのユートピアの実現を願っていた。だから本質的には『ユートピア』は理想国を目指すマニフェストなのだ(報告という周到な形式でカモフラージュしてはいるが)。モアの生きたヘンリ8世時代、愚を極めた公私混同政治に翻弄されたイギリスという国に想いを馳せてみれば、そう理解ができる。
カトリックの正統として王室に迎えられた(取り込まれたというべきか)モアは、やがてヘンリの離婚に反対したことがきっかけで、断頭台に上がることになる。この経緯の馬鹿馬鹿しさは、誰の目にも明白だろう。
モアとエラスムスは親友だった。モアの死の翌年、エラスムスもモアの後を追うように死んでいる。エラスムスは『痴愚神礼讃』をモアに捧げている。
エラスムスがアイロニーをもって理想を逆照射した照明技師とするなら、モアは空想という法衣をヒスロデイに纏わせ、理想を語らせた脚本家と喩えることができるかもしれない。