読書メモ 「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」 ーその1
「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」
林 達夫
平凡社 1971年
30年程前に、思い切り背伸びをして買った本を、いま再び開いている。若かった私には案の定、林達夫の博覧強記、そしてエスプリについていける筈もなく…。こうして読んでいても未だ歯が立たないのが悲しいが、下座に控え、いや、それも烏滸がましいので立見で、観客の一員に紛れ込んでみようと思う。
長くなるので、まずは前半4編の感想を述べることにする。
歌舞伎劇に関するある考察
林達夫、弱冠22歳の勢い溢れる処女作。しかし、その早熟に驚く。
テーマが歌舞伎というのが意外だが、林達夫は一時、足利時代の末に出雲から現れ出た阿国(おくに)という一人の女に端を発する歌舞伎劇に、熱を上げていたそうだ。
徳川時代、さらには足利時代の歴史に足場を置いた分厚い解釈をベースに、林達夫は歌舞伎劇の周囲(ミリウ)を描き出す(歌舞伎劇興盛の一つの大きな要因は階級制度にあるという)。そして歌舞伎劇の本質を、感覚的美の追求であるとする。
しかしそんな歌舞伎への愛憎に塗れつつも、雪や糊紅との、刹那や官能との決別を、林達夫は宣言する(和辻哲郎は日本民族は「ディオニュソス的要素」に富んでいると言ったそうだ)。「その中には永遠の人生がない。人間がない。性格がない。本当の意味の悲劇も喜劇もないからである」。西洋文化の洗礼を受けた林達夫には、役者美を追求する、ただそれだけの為の戯曲に、人間生活の根本に食い入るドラマを見出すことができなかったのだろう。
巻末の加藤周一の解説を借用して、知識人としての林達夫の立ち位置を述べておくと、西洋文化に対する日本の知識人の態度は三つの時期に分けて考えられるという。第一は明治時代、西洋文化のなかで日本社会に直接役立つ部分を「択び出し」輸入するというもの。第二は両大戦間、西洋文化の「全体をそのものとして」理解しようとするもの、第三は戦後、学問的情報の増大に伴い知識の棲み分けが起こり、研究組織とその予算が巨大化することで否応なく産業との結びつきが強まるというもの。林達夫はこのなかで、第二の知識人に位置づけられる。明治の知識人は西洋研究の日本社会にとっての意味を疑っていなかったのに対して、両大戦間の知識人はその仕事の彼ら自身にとっての意味を疑っていなかったという。林達夫の処女作が、自らが愛した歌舞伎劇をテーマとしたものだったという点に納得がいく。
キェルケゴールが度々出てくるのが気になるが、林達夫は一高時代に和辻哲郎の『ゼエレン・キェルケゴオル』に衝撃を受けたそうである。
ギリシャ悲劇の起源 — 様式史的研究 —
私はギリシャ悲劇というものを一度も読んだことがない。因ってこの一編を云々する資格が全くないのだが、それでも「悲劇の起源はディチュランボス(酒神讃歌 —— 飲酒家がディオニュソスに充たされたときに歌う歌)にある」というアリストテレスが『詩学』で語った史実には、興味をそそられる。単なる酒の歌が、どのように悲劇に発展していったのか。林達夫も、このアリストテレスの証言を起点にする。
「悲劇はもともとサテュロス劇風の様相を呈していた」らしい(サテュロスはギリシャ神話に登場する半人半獣の精霊)。ディオニュソスはもともとオリンポスの神ではなく、北方より渡来した生と死の異神だが、ディオニュソス宗教の奉仕者は獣性の中に神性を見出し(おそらくその逆も)自ら獣の姿に仮装したという。のちにディオニュソスは、ギリシャ化され人間化されたが、半人半獣はディオニュソスの従者のイメージとなった。アイスキュロスは『火を齎(もたら)すプロメテウス』で、サテュロスに山羊(トウラゴス)よ、と呼びかけている。そして山羊の歌、これすなわち悲劇(トラゴディア)の語源である、云々…。
ディチュランボス —— ディオニュソス —— 半人半獣 —— 山羊。表象の流れだけ追うと、こうなるが… 、ビブリオフィル林達夫が文献を駆使して展開する悲劇発生解明のプロセスの面白さは、勿論こんなものではない。その厚みのある論考は、一言では言えないほど魅力的だ。
では山羊が悲劇になったのは何故か。林達夫は、そこにはディチュランボスの合唱者が山羊に「扮すること」ディチュランボスの頭唱者が立って合唱隊に「答えること」に因があるという。しかし何よりも、悲劇が劇的な様相を示した、その大きな跳躍の第一歩は、テスピスという詩人が俳優(応答する者の意)を発明し、自ら合唱者の間に立ったところに始まっているという。そして、テスピスはアッティカの朗吟者(レシタトール)からヒントを得た、と林達夫は想定している。俳優が自らの喜び、悲しみを「語る」ことで、ディオニュソスのそれを演じるに至ったと。
私なぞには完全に消化不良のこの一編だが、これは、林達夫が京都大学哲学科で美学・美術史を専攻した際の卒論だというから驚く。
それにしても歌舞伎といい、ギリシャ悲劇といい、林達夫という人の思想のベースには「演劇愛」があることを実感する。
『みやびなる宴』 — 一つの招待 —
『みやびなる宴』。画家ワトー、詩人ヴェルレーヌ、作曲家ドビュッシー、フランス芸術史に燦然と輝く三人に共通して存在する作品の名だ。偶然ではなく、ヴェルレーヌはワトーから影響を受けており、ドビュッシーはヴェルレーヌの作から題を譲り受けている。
林達夫は、この三人を「脊椎なき芸術の天才的な創造者」と表現し、惜しみない愛を語るのである。
我々はこの三人の芸術家をあの神話のゼウスとオケアノスの娘との間に生まれた三人の麗しい姉妹に擬えて、Les Trois Grâces Françaises と呼んでも差支えないであろう。我々の『みやびなる宴』は、あたかもこの三人のグラースたちが互いに手を取り合って行える一つの円舞(ロンド)である。フランス的優雅のいかなるものなるかを感得するには、人は何よりも先ずこの三人の芸術に赴くのが捷径であり、あるいはそれへ赴くだけで既に十分であるとも言える。
フランス的優雅が私には少々欠落している故、ワトーと聞くと、あのロココの…という認識しかなかったが、彼の代表作『シテール島の巡礼』を眺めていると、その風景の描き方が独特であることに気がつく。後年のイギリスの風景画家ターナーや、或いは林達夫も指摘するように、印象派の先駆と捉えることもできるような清新な描写が目を引くのだ。
林達夫はワトーの風景を、自然の観察に基づきながらも、自然のうちから彼のヴィジョンに適合する「柔らかな夢の如きピトレスク」だけを抜き出した「場面」と呼び、そこに「苦痛や動乱や醜を排斥するフランス民族の耽美主義」を見る。ワトーはその「場面」の中に、やはり彼の美意識を体現した「衣裳」(彼は言うなれば当時のファッションリーダーであった)で装った男女を散りばめる。しかしその華やかな情景の襞の陰には、一抹の寂寥感が見え隠れしている。ワトーの画の華やかさは、貧困や病苦が絶えなかった彼の運命の「半語」なのだ、と林達夫は言う。
そしてワトーの子孫とも言えるヴェルレーヌやドビュッシーの作品にも見られる儚き抒情、そういったものへの感傷に『歌舞伎劇に関するある考察』での歌舞伎への愛惜に通底するものを、私は感じるのだ。
『タイス』の饗宴 — 哲学的対話文学について —
ある日の夕方、アナトール・フランスは、夫人と秘書のジャン・ジャック・ブルッソンと連れ立ってセーヌ河畔を散歩していた。すると、古本屋の1フラン均一の箱の中に、埃にまみれた料理本や手淫本などと一緒に自身の『タイス』を見つけた。それはフランスの手により、誰かに献著して書かれた文字が丁寧に消された初版本で、しかもページは『饗宴』の前のところまでしか切られていなかった。
「豚に真珠さ。饗応の間へ来て、奴さん食欲を失くした形だ」
とフランス。夫人は
「あなたの『饗宴』はデリケートな胃袋を持つ食通のためだけに作られてあるのよ」
と慰めるのだが、フランスはこう告白する。
「ここだけの話だが、その『饗宴』は実はブロシャールのだよ!」
この逸話は秘書ブルッソンが《Anatole France en pantoufles》の中で伝えたものだが、林達夫はこれを読み、フランスが別本でヴィクトル・ブロシャールの名著『ギリシャ懐疑学派』を推賞し「自分の最近発表した小説の中には、もしブロシャールのこの書を読まなかったら書かなかった数十ページがある」と語っていたのを想い起こす。そして、林達夫は『タイス』について「霊肉の闘争を描いた近代文学中で最も美しい最も皮肉な『哲学的コント』であることは恐らく批評家の一致した見解であろう」と語り「ブロシャール仕込みの哲学種が『タイス』の『饗宴』の最も甘美な御馳走にかわったことを思うと、フランスも実に並々ならぬ腕前を持った哲学的料理人だったと言わなければならない」としている。
「哲学的コント」とは、なんと魅惑的なコピーでないか。『タイス』を未だ読んだことがないが、是非読んでみたくなった。因みに林達夫はフランスを「私の文学の教師」と呼んでいる。
話はそこから哲学料理の元祖、プラトンの『饗宴』に飛んでいく。
古来さまざまな哲学的対話があるが、それらは「正直に言って、極めて人工的な、わざとらしい、味気ない、つまり非文学的なもので、強制的に登場させられた仮想的な形而上学的亡霊ないし思想的ロボットの無味乾燥な、退屈な、果てしのない概念的会話の連続に外ならないものが多い」と、林達夫は手厳しい。それに対しプラトンの対話には「生きた人間、その気稟、性格、情熱、利害と寸毫も切り離すことのできない、生きた思想、生きた意見の劇的争闘の展開」があるとし、「プラトンは先ず何よりも文学として読まれなければならない」「『対話篇』におけるプラトンは先ず何よりも戯曲作家である」と重ねて強調する。
ではプラトンは何故その著作に対話的形式を選んだのか。林達夫はギリシャ哲学史家アルベール・リヴォの『戯曲作家プラトン』を引いて、プラトンの折衷主義に、この問題を解決する鍵を見出そうとするリヴォを紹介する。リヴォは「彼はすべてを模倣した、語彙、リズム、文体の技巧、各人持ち前の癖。……プラトンは意表に出るほどの巧みさで、彼が舞台に上せたすべての人々の《流儀でア・ラ・マニエール・ド》書いた」と語っているそうだ。ここから林達夫は「『饗宴』などはこの意味で実に一つの『パロディー』でさえあったのである」と痛快な解釈を展開している。
非常に短い一編だが、スパイスの効いた必読の一編だと私は思う。