今こそドストエフスキー。
ネット社会になって、人間関係は急速に希薄になってきている。「つながり」や「共感」という綺麗な言葉が表面ばかり取り繕って、実際には人間同士の深い付き合いができにくくなっているような気がしてならない。
そんな今だからこそ、ドストエフスキーの作品は人間の本質やコミュニケーションをより強烈に感じさせてくれるんじゃなかろうか、とふと思ったので、何冊か読んだ感触をメモがわりに書いてみようと思う。
ドストエフスキーの作品では、普通に生きていればまず出会うことのないような極端な人物が頻繁に登場する。
「死の家の記録」はドストエフスキーが実際に投獄されていた時に出会った罪人や監獄の官吏を克明に記録して、出世作となった作品だが、どう見ても人の良さそうな好青年が何人も人を殺した罪人だったり、ずる賢くて残忍で、笞刑がやたら好きな官吏など、監獄だからそりゃそうだろうが、とにかく極端な人しか出てこない。しかもバラエティがすごくて、どの人物も驚くほど立体的に描かれている。
それぞれの人間が状況によって、相手によってどう対応し、変化するのか。もしもの時にどんなふうに感じ、どう対応しようとするのか。というようなことが、多くの登場人物について余すことなくみっちり描かれる。主人公と周りの何人かだけじゃなくて、見渡す限りの人物を、細密画みたいに克明に描き出している。おかげで周りの空気や彼らが起こす風の温度まで伝わるかのようだ。
そして、そんなめちゃくちゃな人物が身近にいたらさぞかし不快だろうと思うのに、私たちは登場人物から目が離せない。
ある意味、私たちはそんな人物に憧れているのかもしれない。私たちの中には、常にそんな登場人物のような極悪な自分が潜んでいるんじゃないかと思う。だからこそ魅力を感じてしまうのだろう。
私たち読者は、登場人物にいつの間にか大きな魅力を感じ、なんならいわゆる「いいやつ」よりもよほど印象深く、感動さえしながら読み進むことになる。とはいえ、一方では、魅力的且つ不穏な人物への不快感を最後まで消しきることもできず、どこか腑に落ちない気持のまま、ラストを迎えることになる。
そうした理不尽を抱えながら最後まで読み続けること自体結構辛く、覚悟が必要なはずなのに、実際には取り憑かれたように読んでしまう。
ドストエフスキーの人間洞察の鋭さは、克明で立体的な人物描写はもとより、その人物描写の先に、人間の不思議な魅力を感じさせるところに真骨頂があるように思う。
人間は綺麗事では済まないし、生身の身体同士が様々な形で触れ合い、色々な形で繋がりあって生きている。人間とは元々アンビバレンツで理不尽で、矛盾に満ちた存在なのだ。だからこそ問題だらけで、そして愛おしい。そいういうことをドフトエフスキーは嫌でも思い出させてくれる。
もし人間社会において、杓子定規で全てが解決するんだったら、AIに全部仕切ってもらったらいい。そういったある種の不便さ、どっちつかずのモヤッとした感じこそが、人間の魅力なのだ。
もしかしたらドストエフスキーは現代の「読むクスリ」なのかもしれない、と最近思う。寝る前とか、満員電車に揺られながら、スマホの代わりにドストエフスキーを開いてみると、ちょっといつもと違う景色が見えるかもしれない。