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読後感想 ガルシア・マルケス著『迷宮の将軍』

シモン・ボリバルの名前は、高校の世界史でチラッと出てきたくらいで、「南米の割と最近の人」くらいの知識しかなかった。

『迷宮の将軍』は、昨年コロナ禍で最初の緊急事態宣言が出た頃に、古書を買いまくった中の一冊である。当時は「遠くに行きたい」「非日常を味わいたい」という気持ちでいっぱいだったせいか、南米の作家の本ばかり買っていた。

結局たっぷりあった時間は、意外とダラダラと消費され(意外でもないか苦笑)、唯一狭い庭の開拓だけが功績となって今に至っている。

偉大なる解放者に似つかわしくない結末

映えある南米の解放者、シモン・ボリバル。
その鮮やかで輝かしい業績とは裏腹に、最期の7ヶ月は「南アメリカ統一」という壮大な夢が遠のき、失望と焦燥感、苛立ちと孤独の中で過ごすことになるーー。

ガルシア・マルケスは、この偉大なる解放者に似つかわしくない最期ーーその欲のない性質ゆえにかえって人々から受けてきた誤解やデマ、ときに顔を出す神経質で荒々しい言動なども含めーーを、極力事実に沿って記し、その人となりだけでなく、当時の南米を中心とした社会の様子まで、立体的に表現することに成功している。

著者あとがきによれば、一つ一つの史実に誤りがないかどうか、各方面の関係者による入念なチェックを受けたらしい。

二つほどのエピソードは、もしそれらが見逃されていれば「このゾッとするほど暗い内容の小説に無作為のーーそして恐らくは望ましいーーユーモアを多少とももたらしてくれるように思える」と述べられている。

「見逃された二つの間違い」がある『迷宮の将軍』をちょっと読んでみたい気にもなったけれど、それくらいボリバルの最晩年は過酷で、孤独だ。

モノの見方を変える歴史もの

あくまでも史実に忠実に描きながら、歴史上の人物を通説とは全く違うふうに描き、歴史や人の見方を変えさせたり、「ひょっとしたら」を想像させるのに長けた作家に、例えば山本周五郎がいる。

山本周五郎の手にかかると、江戸後期の老中、田沼意次や伊達騒動の原田甲斐など、悪名高いと言われてきた歴史上の人物の全く違う面が表出し、「一体悪いのはどっちなのだろう」とか、「世に出るのが早すぎた傑出した人物だったんだ」などとイメージががらりと変わる。

歴史というものは、教科書通りの見方だけでなく、失敗した側の立場に立ってみると、こうも違って見えるものなんだ、と目が覚める思いをした記憶がある。

最近では小説ではないにせよ、「歴史失敗学」の瀧澤中の著作などに、視点をずらしてみる、失敗側の立場になって歴史を見直してみるといった、山本周五郎流のモノの見方が引き継がれているように思う。

時代が人を生む

ガルシア・マルケスは、この英雄の姿をより等身大に後世に残していくために、悲惨すぎる最期にフォーカスし、極力事実に沿って装飾なく描くことが、最大の効果を発揮すると考えたのだろうか。

あるいは、成功者の栄光とは程遠い最晩年と、その輝かしい功績との無常なまでの対比が、文学の素材としてより煌めきを放ち、ガルシア・マルケスという巨大な作家を惹きつけたのかもしれない。

実際にこの巨大な作家が、何を思ってこんなに暗い題材に惹かれたのは憶測の域を出ない。

しかし一つ確実に言えることは、「人が時代を創る」のではなく、「時代が人を生む」という感慨が、物語全編に漂っているということだ。

そこから翻って考えると、このコロナ時代、私たちも時代に創られ、時代の要請によって生まれてきたとも言えるのではないだろうか。

私たちは、迷宮から抜け出せるのだろうか

ボリバルは死を目前にして「いったいどうしたらこの迷宮から抜け出せるんだ!」と叫んだという。

私たちは、どうだろうか。この迷宮から、いつか抜け出せる日が来るのだろうか。

「南米どころか、世界は未だ迷宮から抜け出していないではないか」と、ボリバルが生きていたら嘆いたかもしれない。

しかし、少なくとも私たちは、200年近く前のボリバルが生きた足跡を辿る僥倖を得た。

それにより、今生きている社会、日々の生活にどっぷり浸かりながら、ボリバルの人生を足の裏でふつふつと感じることにより、やりきれぬ思いや、行き違いのもどかしさなど、不合理を不合理として受け入れて生きていこうという気になっている。

これが文学の力、そして、小説家の力量の凄さなのだと思う。

人間というアンビバレンスへの讃歌

この「ゾッとするほど暗い小説」が、なぜか読後、爽やかで清々しい気持ちにさせてくれたことも言い添えておきたい。

どんなに力のある人間であっても、時代の波を前にすればあっという間に飲まれてしまう。人がどんなに精密に作為したとしても、時代の要請には勝てない。

ガルシア・マルケスは、「だから人間なんか無力なんだ」と言いたかったわけではない。

たとえ無力に終わったとしても、理想と現実という永遠のギャップを埋めようとせずにはいられないし、無常な世の中とはわかっていながらも恒久を追求せずにはいられない。

『迷宮の将軍』の読後は、そういった宿命を持つ永遠のアンビバレンス、人間という存在への深い慈しみを感じる。それは、「南アメリカ解放の父、シモン・ボリバル」への讃歌として、じわじわと身体に染み込んでくる。

そして多分、ガルシア・マルケスは、このレクイエムを書かずにはおれなかったのだ。時代の要請として。


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