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読後感想 北村稔・林思雲著『日中戦争 戦争を望んだ中国 望まなかった日本』

南京大虐殺や百人斬りなど、「日本人が他国に対して行った残虐な侵略戦争」というイメージの強かった日中戦争について、正直これ以上知りたいと思ったことはなかった。

しかし、実は南京大虐殺も百人斬りも、真実ではないというのをどこかで見て、(それってどういうこと?)と色々探して、見つけたのが本書だった。

本書は日本人と中国人著者との共著で、両国の立場から日中戦争について論考している。

日中戦争は侵略戦争ではなかった、というのが両著者の見解で、それについての根拠があらゆる文献、調査研究の結果から論じられている。

実際に、歴史の教科書では見たこともないような事実や視点が盛り込まれており、こういう見方もあるのかと目から鱗が落ちる場面も多かった。

中国人の伝統的政治や気質

そんな中、本筋からはずれるのかもしれないが、私が最も目が開かれた感じた点は、中国人の伝統的政治のあり方や気質についての記述である。

愚民政治

私たちは、横浜で2002年より「横濱学生映画祭」という小さな国際映画祭を主催していた時期がある(NPO法人横浜アートプロジェクト名義)。
日本、中国、韓国という東アジアの三国で開催してきた映画祭で、映像を学ぶ学生の映像制作振興と、連携・交流を図る目的で開催された(2010年に名称を変更、場所を墨田区に移し、2012年まで開催)。

同映画祭での連携をきっかけに、長年映画人の悲願であった、三国の共同製作が、「日中韓共同・横浜開港150周年記念映画『3つの港の物語』」という形で実現した。

こちらにもその下りを書かせていただきました→

その後、中国の映画人や美術界の方々とは長く付き合ってきた。家族ぐるみで交流している写真家や脚本家もいる。

そんな中、長年不思議だったのは、なぜ中国はあそこまで格差社会なのか、ということだった。

「北京に居住するだけでエリートと見做される」とか
「農村出身のAくんが、よく北京電影学院(*)に入学できたわね」とか
高層マンションで暮らす北京の友人曰く「ある地方の山間部で洞窟で暮らしていた親子が餓死した」とか…。

日本の感覚で言えば、全く理解不能な話がゴロゴロしているのだ。

共産党の独裁政治が生み出した産物なのかな?と朧げながら推測していたけれど、そうではなく、中国の伝統的な政治のあり方「愚民政治」が元だという。古くは孔子まで遡るらしい。

(*)北京電影学院→世界有数の中国国立映画大学。何百倍といった狭き門で入学する学生はエリートの中でも芸術的な才能を持つ特別な人たちとされ、憧れの対象となっている。同学院の出身者が中国のメディア界をほぼ席巻しているといっても過言ではない。

中国の儒教道徳「避諱」

中国には「避諱(ひき)」という国家や共同体にとって都合の悪い事実を積極的に隠そうとする行為があるそうだ。それが中国の「伝統的歴史観」を形成したという。

中国では真実よりも、偉大な人物と国家民族の擁護が重要視されるらしい。必要とあらば、真実を投げ捨て、偉大な人物と国家民族を擁護し、真相を隠すような発言をしても構わない。どころか、そういった人たちは「愛国心がある」と称賛されるという。

そんなことがなぜ起こったのか、ということを、孔子が編纂した『春秋』からの記述や、儒教という「宗教」について、そして、愚民政治にもつながる、人間は生まれながらにして不平等であるという伝統的な中国人の心性に触れ、わかりやすく解説している。

異文化交流の可能性

これまで20年近く、私たちが付き合ってきた中国人たちは、主にいわゆるエリートで「賢人」である。皆揃って人格者だし、ユーモアもあって国を超えた友情を感じるシーンが多々あった。

それでも、時折、不思議でならないことがあった。
しかし、それもまぁ国が違うし文化も違うから、というくらいに考えて、目を瞑ってきた。

本書を読んで、そうか、だからあの時彼はこう言ったんだな、とか、彼女の不可解な反応はこれだったんだ、というように、どうも納得いかないと思ってきた部分が一気に氷解した。

だからと言って、中国の友人が嫌になるとか、顔を見たくなくなったとかいうことは一切ない。むしろ、おそろしいほど「異なる」文化にいながら、よくぞこれまで付き合ってくれました、という感動に包まれている。

そして、お互いの言語もわからず、通訳を介しながらも、
相互にがっちりとした信頼感を持ち続けることができたことに、ある種奇跡のようなものを感じている。

そこに文化以前の、あるいは文化を超えた人間同士のコミュニケーションの可能性が拓かれていると信じたい。

おわりに

本書を読んで「日本人は侵略戦争なんかしてないんだ」と理解し、戦後以降の日本人の自己肯定感を向上させることもできるかもしれない。

ただし、大切なのは、侵略戦争であろうがなかろうが、そして、日本にとっては望まなかった戦争であろうとなかろうと、中国の国土を戦地として、住民や土地を破壊したことは紛れもない事実で、そこはどうあっても消すことはできないというところだ。

同時に、物資も人も不足する戦地で、祖国のために必死に戦い抜いた人たちのことも忘れてはいけない。


また、場合によっては、自国の利益を優先すべく、日中戦争を侵略戦争呼ばわりしてきた欧米各国に関して、ある種の敵対心を覚える人もいるかもしれない。

何にせよ固定された歴史観とか、イデオロギー、正義などに寄りかかるのは簡単だし、わかりやすいし、安心感がある。

でも、私たちに必要なのは、一つの考え方やイデオロギーを自分自身に押し付けて、帰属意識で自分を安心させるのではなく、その都度自分で判断し、自分の足で立つという、何ものにも寄りかからない姿勢ではないだろうか。

これはとても難しいことだけど、自戒を込めて肝に銘じておきたいと思う。















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