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涅槃に至る本物のマインドフルネス-大念処経(経蔵長部第22経)とそのまとめ
私は、このように聞いた。
あるとき世尊はクル国に滞在しておられた。クル国にはカンマーサダンマという名の町があった。
じつにそこで、世尊は比丘たちへ呼びかけられた。
「比丘たちよ」と。
「尊者よ」と、彼ら比丘たちは世尊へ応えた。
世尊はこう仰った。
「比丘たちよ、衆生の清浄へ、愁悲の超越へ、苦憂の滅没へ、理種の証得へ、涅槃の現証へ至らしめる、かの一なる行道、それはすなわち、四念処です。
いかなる四つか。
比丘たちよ、ここに〔とある〕比丘が、熱心なる正知正念の者として世における貪欲と憂悩を調伏し、
身に関して身を随観して住し、
熱心なる正知正念の者として世における貪欲と憂悩を調伏し、
諸受に関して受を随観して住し、
熱心なる正知正念の者として世における貪欲と憂悩を調伏し、
心に関して心を随観して住し、
熱心なる正知正念の者として世における貪欲と憂悩を調伏し、
諸法に関して法を随観して住する〔とします〕。
①【身随観】
では比丘たちよ、
いかに比丘は、身に関して身を随観する者として住するのでしょうか。
比丘たちよ、
ここに〔とある〕比丘が、林野へ行き、樹の根へ行き、あるいは空き家へ行って、身をまっすぐに定置し、前面に念を起こして結跏趺坐する〔としましょう〕。
彼は、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
長く出息しながら『長く出息している』と了知し、あるいは、長く入息しながら『長く入息している』と了知します。
短く出息しながら『短く出息している』と了知し、あるいは、短く入息しながら『短く入息している』と了知します。
『全身を感受して出息しよう』と修練し、『全身を感受して入息しよう』と修練します。
『身行を安静にさせて出息しよう』と修練し、『身行を安静にさせて入息しよう』と修練します。
比丘たちよ、
あたかも、熟練のろくろ職人、あるいはろくろ職人の内弟子が、〔粘土を〕長く引っ張るとき『私は長く引っ張る』と了知し、短く引っ張るとき『私は短く引っ張る』と了知する、じつにそのように。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は行きながら『行く』と了知し、立って『立っている』と了知し、坐って『坐っている』と了知し、あるいは臥しつつ『臥している』と了知し、彼の身が置かれたそれぞれその如くに、それを了知します。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、足の裏から上、毛髪の先端から下の、皮膚を周縁とするこの身を、種々の種類の不浄が充満したものであると観察します
『この身には、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、筋肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃の内容物、大便、胆汁、粘液、膿、血、汗、脂肪、涙、膏、唾液、鼻汁、関節、滑液、小便がある』と。
比丘たちよ、
じつにそのように、
比丘は、足の裏から上、毛髪の先端から下の、皮膚を周縁とするこの身を、種々の種類の不浄が充満したものであると観察します。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、この身を、住立するまま、定置されるままに、要素より観察します。
『この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素が存在する』と。
身に関して生起、消滅、あるいは生起と消滅の性質あるものと随観する者として住します。
智恵と念に依止しないまま住するかぎり、あるいは彼には『身が存在する』という念が現起しますが、しかし彼は〔すでに智と念に依止しているため〕世における何ものをも執受しません。
比丘たちよ、じつにこのように比丘は、身に関して身を随観する者として住するのです。
②【受随観】
では比丘たちよ、
いかに比丘は、諸受に関して諸受を随観する者として住するのでしょうか。
比丘たちよ、
ここに比丘が、
楽なる受を感受して、『楽なる感受を感受する』と了知します。
あるいは、苦なる受を感受して、『苦なる感受を感受する』と了知します。あるいは、不苦不楽なる受を感受して、『不苦不楽なる感受を感受する』と了知します。
諸受に関して生起、消滅、あるいは生起と消滅の性質あるものと随観する者として住します。
智恵と念に依止しないまま住するかぎり、あるいは彼には『受が存在する』という念が現起しますが、しかし彼は〔すでに智と念に依止しているため〕世における何ものをも執受しません。
比丘たちよ、じつにこのように比丘は、諸受に関して諸受を随観する者として住するのです。
③【心随観】
では比丘たちよ、
いかに比丘は、諸心に関して諸心を随観する者として住するのでしょうか。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
有貪の心を『有貪の心だ』と了知します。あるいは、離貪の心を『離貪の心だ』と了知します。
あるいは、怒りの心を『怒りの心だ』と了知します。あるいは、怒りのない心を『怒りのない心だ』と了知します。
あるいは、有痴の心を『有痴の心だ』と了知します。あるいは、離痴の心を『離痴の心だ』と了知します。
心に関して生起、消滅の性質、あるいは生起と消滅の性質あるものと随観する者として住します。
智恵と念に依止しないまま住するかぎり、あるいは彼には『心が存在する』という念が現起しますが、しかし彼は〔すでに智と念に依止しているため〕世における何ものをも執受しません。
比丘たちよ、じつにこのように比丘は、心に関して心を随観する者として住するのです。
④【法随観】
では比丘たちよ、
いかに比丘は、諸法に関して諸法を随観する者として住するのでしょうか。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
五蓋なる諸法に関して諸法を随観する者として住します。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
内に貪欲のあることを『貪欲がある』と了知します。あるいは、内に貪欲のなきことを『貪欲がない』と了知します。また、生じていなかった欲貪の生起があれば、そのようにそれを了知します。また、生じた欲貪の捨断があれば、そのようにそれを了知します。また、捨断された欲貪が未来に生じなくなったならば、そのようにそれを了知します。(瞋恚、惛沈睡眠、掉挙悪作、疑も同様)
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、五取蘊なる諸法に関して諸法を随観する者として住します。
比丘たちよ、
ここに比丘は
『かく色(肉体)あり。かく色の生起あり。かく色の滅没あり。
かく受あり。かく受の生起あり。かく受の滅没あり。
かく想あり。かく想の生起あり。かく想の滅没あり。
かく諸行(指向、意志作用)あり。かく諸行の生起あり。かく諸行の滅没あり。かく識(認識作用)あり。かく識の生起あり。かく識の滅没あり』と、
比丘たちよ、じつにこのように比丘は、五蘊なる諸法に関して諸法を随観する者として住するのです。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、内外の十二処なる諸法に関して諸法を随観する者として住します。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
眼を了知します。また、諸々の色を了知します。また、その両者によって起こる結合、それを了知しますまた、生じていなかった結合の生起があれば、そのようにそれを了知します。また、生じた結合の捨断があれば、そのようにそれを了知します。また、捨断された結合が未来に生じなくなったならば、そのようにそれを了知します。(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、色・声・香・味・触・法の六境も同様)
比丘たちよ、じつにこのように比丘は、十二処なる諸法に関して諸法を随観する者として住するのです。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、七覚支なる諸法に関して諸法を随観する者として住します。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
あるいは、内に念覚支のあることを『私に念覚支がある』と了知します。あるいは、内に念覚支のなきことを『私に念覚支がない』と了知します。また、生じていなかった念覚支の生起があれば、そのようにそれを了知します。また、生じた念覚支の修習の完成があれば、そのようにそれを了知します。(択法、精進、喜、軽安、定、捨も同様)
比丘たちよ、じつのこのように比丘は、七覚支なる諸法に関して諸法を随観する者として住するのです。
比丘たちよ、
さらにまた別に、
比丘は、四聖諦なる諸法に関して諸法を随観する者として住します。
比丘たちよ、
ここに比丘は、
『これは苦である』と如実に知り、『これは苦の集である』と如実に知り、『これは苦の滅である』と如実に知り、『これは苦の滅へ至る道である』と如実に知ります。
しかして比丘たちよ、
いかなるものが苦聖諦なのでしょうか。
生も苦です。老も苦です。死も苦です。憂悲苦憂悩も苦です。怨憎会も苦です。愛別離も苦です。求不得、それも苦です。要略するに、五蘊が苦です。
また比丘たちよ、
いかなるものが苦集聖諦なのでしょうか
およその、再有をもたらし、喜悦の貪りをともない、そこかしこに対する歓喜ある渇愛。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。
また比丘たちよ、
いかなるものが苦滅聖諦なのでしょうか。
じつに、かの渇愛の残余なき離貪による滅、棄捨、捨離、解脱、無執着です。
また比丘たちよ、
いかなるものが苦滅へ導く道聖諦なのでしょうか。
じつに、この八支聖道です。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。
比丘たちよ、およそ誰であれ、
これら四念処を、七年修するような者、その者には、二つの果報のうち、いずれかの果報が期待されます。現法における完全智か、あるいは、生存の料が残っている場合には、不還果です。(七ヶ月、七日も同様)
『比丘たちよ、衆生の清浄へ、愁悲の超越へ、苦憂の滅没へ、理種の証得へ、涅槃の現証へ至らしめる、かの一なる行道、それはすなわち、四念処です』と、
こう、世尊は仰った。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c02.htm から引用
【涅槃に至る本物のマインドフルネスまとめ】
①身念住
[持息念] 我が身が現在なしている呼吸の入出・長短・強弱、ならびに呼吸にまつわる身体の状態を認知する。安那般那念における十六特勝の最初の四。
[正知威儀] 我が身が現在なしている行・住・坐・臥等の行為・状態を、そのままに認知する。[不浄観] 自他の身体が、血・肉・内蔵・汚物など諸々の不浄によって成り、それらで満ちていることを認知する。
[界分別観] 自他の身体が、地・水・火・風の四大、あるいは空と識とを加えた六界から成っていることを認知する。
[九想観] 他の身体が死後、腐敗し鳥獣に喰われ、最後には骨ばかりとなって散乱するものと知り、自身もまた同様であることを認知する。
(四禅) 四禅にいずれかに達したならば、四禅それぞれの段階における身心の状態を、そのままに認知する。
(光明想) 心解脱し、心に闇なき状態であって、心が光り輝いていることを認知する。
②受念住
我が身体が苦・楽・不苦不楽、我が心が喜・憂・不苦不楽のいずれかを感じている時、その感じていることを、そのままに認知する。
③心念住
我が心に、たとえば貪・瞋・癡などが生じていればそれを認知し、生じていなければそれを認知するなど、その現在の状態をそのままに認知する。
④法念住
[十二処 ]眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、色・声・香・味・触・法の六境との関係と、そのそれぞれの現在の状態を認知する。
[五蓋]貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五蓋いずれかが、心に生じているか否か、またその生・滅の状態を認知する。
[七覚支]択法・念・精進・喜・軽安・定・捨の七覚支いずれかが、心に生じているか否か、またその生・滅の状態を認知する。
[五取蘊]色・受・想・行・識の五取蘊それぞれの生起と滅とを認知する。
[四聖諦]苦・集・滅・道の四聖諦を如実に知る。
以上
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