見出し画像

アート事始め②

前回の続きです。

アートから離れてしまってアートを手繰り寄せた時期について書いていきます。


その前に、英語のアートは日本語で「芸術」に該当する言葉となり、芸術全般の絵画、彫刻、音楽、演劇、舞踏:今でいうとパフォーミングアーツ、映画が相当する。アートの語源はラテン語でars(アルス)=技術を意味し、当時は”芸術”の職業は低くみなされていた歴史がある。


さて、
高校卒業後にアートに憧れつつも全く違う方向へ進学した18歳の頃、N市立美術館で銅版画家の山本容子さんと宗教学者の中沢新一さんの対談を拝聴する機会を得た。誘ってくれたのは母だった記憶。

当時を煌めく(もちろん両者現在も煌めくお方である)お二人を予期せず目の当たりにした衝撃と感動は今も忘れない。

まず、山本さんの作品のユーモアと繊細さ、ストーリー性に魅了された。そしてご本人のチャーミングさと美しさに大人の女性への憧れを覚えた。中沢さんは、ウィスキーの宣伝にも出演されていて知的で人類学と宗教学への鋭い日本を代表する学者であった。ニューアカと言われた新しい学問を追求しメディアへ積極的に出られたお一人である。


成熟された会話と何よりもお二人の非常にマッチしたファッションに私は心トキメいたのであった。山本さんは、イッセイ三宅のプリーツプリーズだったかジルサンダーを身にまとわれ、中沢さんは黒タートルに質の良いジャケット。お二人の佇まいとファッションにも魅了され、こんな大人になりたいと願った。

その後、
山本さんは大御所である美術批評家である故中原祐介さんがパートナーであることを知る。お二人の関係性は、まさにアメリカの画家ジョージア・オキーフと近代写真の父と呼ばれるアルフレッド・スティーグリッツのようでもあり、私自身のローモデルともなった。


山本さんを通して、世界のアーティストを知る機会となったことに今だ感謝している。そう、芋蔓式な世界観の拡大である。文献検索の際にもある一つのことを起点にして期せずして出会う「新しい世界」との出会い。


何かを探求するということは、まるで旅をするようでもあるのだ。ヴァーチャルが当たり前になった今では、オンラインで旅ができるのも同義でもある。


話が逸れた。

山本さん、中沢さんの対談は10代であった私に大きく「アート」の世界が開いた瞬間でもあった。両者は今だに、私の”アイドル”である。
人を介して世界が広がっていくように、「アート」ひいては「アーティスト」を介して世界が広がって自分自身の感覚や感性といった自分自身の新たな出会い発見ともなる。このことが「アート」へのワクワク、興味関心が尽きない理由の一つである。


その後、
”趣味”として面白そうなアート展覧会を見に行ったり雑誌や個人的に調べたりしていた。ファッションにも関連するのだが、これもまた10代から憧れていた外国、海外、そしてフランスや図書館をフックとして30代で再度大学へ通うことした。諸事情があり(とにかく学生一本でやってく勇気はなく物理的も無理だった)社会人として働きながらの二足の草鞋を履くことになる。


実は、入学の動機は「アート」を学ぶのではなく、ラオスでのスタディツアーをキッカケにした発展途上の図書館について学ぶ為であった。

いろんな流れがあって、学ぶことを楽しもうと決めたら自然と「アート」を学ぶ専攻を決めた。専攻を2年目からというのは幸いだった。
学際的と近年よく言われるが、相当前にこのことを掲げ横断的に学び自分自身で学問を創造する、という趣旨の学部だったので、時間が許す限りアートやフランス、といった科目を取得し仕事するか学ぶか図書館の日々が本当に新鮮で楽しかった。


今でも古巣の某書店には本当に感謝するし機会がある度に立ち寄る。自発的に目的を持って学ぶことがこんなに豊かで楽しいのかと実感した。


残念ながら「学芸員」資格は時間が許さず卒業後も当時は母校で夏の集中講座があったのでいつか取れるであろうと思っていたら、その制度が無くなってしまった。もとより、学芸員になるための大学院進学も留学も厳しく諦めてしまった。

その代わり、
ではないが、以前より念願であったフランスへアートを言い訳に数ヶ月「留学」したのは今となれば良かったと思う。その後、郷里へ帰ることに決めた。


東京では圧倒的にチャンスが少ない地方で何とかアートの仕事に就きたくて名刺と履歴書を何度も送った。とあるギャラリーオーナーからは、自分で3年間食べることに困らない貯蓄をして修行せずに自分でギャラリーを持つのがいいと親身になってアドバイスをいただいた。が、その気概もなく何とか地元の商業ギャラリーへ営業兼販売員として勤務することとなる。

ギャラリーは思い描いていた「アート」の世界ではなかった。
もちろん、営業ノウハウ初め多種のことを経験できたし、アートオークションの世界なども垣間見ることができた。現代アーティストの方ともお会いする機会もあったり、上司やお客様をフランスへアテンドすることもできた。

しかし、”理想のアート世界”との乖離と営業として数字がついてこない、アートや美術館に触れること自体が辛くなって辞めることになった。私としては、大きな大きな挫折と心のキズとなって、退職後も数年も美術館やアートについて情報集取することすらなくなっていた。

私は、アートには向いていないんだ。と

アートを手繰り寄せ仕事にしていたのに、こんな結果だった。とても惨めだった。
ここから、再度アートから完全に(と当時は思っていた)離れて語学の世界へ入り意外と水に合っていた。がしかし、予期せぬ形で退職することになり自分自身とキャリを見つめることになる。このフェーズがつい数年前の出来事。

お付き合いくださり、ありがとうございます!
次回は、アート事始めの最終回です。今現在の活動に繋がるプロセスについて書きます。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?