【考察】藤井風「何なんw」の凄さは4つの”ズレ”にある
22歳の若き天才
皆さんは邦楽シーンに突如現れた新星、「藤井風」をご存じだろうか。2019年11月に初のオリジナル音源「何なんw」をリリースすると、邦楽ファンの間で話題となり、2020年4月現在、YouTubeのミュージックビデオの総再生回数は200万回を超えている。Spotifyの「Early Noise 2020」にも選出され、今年のブレイクが期待される新進気鋭のアーティストである。今回は、藤井風氏(以下、風氏と呼ぶことにする)の「何なんw」という楽曲に焦点を当て、なぜこの曲が”バズった”のか考察したいと思う。
もし、この曲を一度も聴いたことがないのであれば、下のMVやストリーミングサービスなどで「何なんw」を聴いてから記事を読むことをお勧めする。
曲名と曲の"ズレ"
軽快なピアノソロの入り、ゴスペル調のコーラス、そして舌打ち。ギターが加わり始めてすぐに、僕は一時停止ボタンを押した。途端、リリースから4ヵ月もこの曲を敬遠していた事を激しく悔いた。
本当はもっと前から風氏のことは知っていた。彼との出会いは2年程前、YouTubeのおすすめ欄に出てきたモノクロトーンのサムネイルをタップした時だった。当時の彼は、まだシンガーソングライター「藤井風」ではなく、ピアノの演奏動画や弾き語りをアップする動画投稿者「Fujii Kaze」だった。動画のタイトルは「丸の内サディスティック(轢き逃げ)」。椎名林檎の名曲をカヴァーした動画を見て僕は衝撃を受けた。電子ピアノを壊さんばかりの勢いで鍵盤を叩き、日本人離れした風貌から発せられる声はこれまた日本人離れしていて、ただならぬ色気を漂わせていた。動画全体にかかっているモノクロ調のフィルターも相まって、夭折した天才のようにも見える。今でも時々、彼は本当に生きているのか疑問に感じる時がある。2人組ユニット「Creepy Nuts」のDJ松永は自身のラジオで藤井風について「好きすぎて会いたくない」と発言したが、松永氏の気持ちは十二分に分かる。彼を画面の向こうにしか現れない空想上の存在にしておきたいのだろう。僕自身、6月に行くライブが楽しみな反面、生で彼を見ることに対して抵抗がないと言えば嘘になる。それから僕は彼の動画を見漁った。「Shape Of Youのコード進行を変えたよ」で才能に驚かされ、『「宝島」(吹奏楽)ピアノで弾きました』で泣き、「アダルトちびまる子さん」で少し笑った。気付けば僕は藤井風の虜になっていた。
だからこそ、ショックだった。「何なんw」という曲名を見たとき、彼が色物に手を出してしまった事に腹立たしささえ覚えてしまった。勿論色物が悪いというわけではない。でも、僕が好きだった彼は格好良くて、色気があって、どこかミステリアスな「Fujii Kaze」だった。曲名に若者のインターネットスラング”w”を付けるような人じゃないと思っていた。”w”が悪いという訳でもない。むしろ僕は日常的にこのスラングを使う。でも、だからこそ、風氏がこのスラングを使うことによって空想上の存在だった彼が僕の側に来るような気がして耐えられなかった。それでも、そんなレッテルは自分が勝手に貼ったもので、彼からすれば迷惑極まりないだろう、と考え何とか自分を納得させた。
それから数ヵ月が経ち彼の事も少し忘れかけてきた頃、友人から改めてこの曲を薦められ、聴いた時の感想が冒頭の部分である。そして色物のと勝手に決めつけていた自分を恥じた。「何なんw」の特徴は、インパクトのある曲名とは対照的に、中身は極上のブラックミュージックであることであろう。このギャップ="ズレ"こそが「何なんw」の一つ目の魅力である。そして僕の中で、何か違和感を感じていたこの"w"がこの曲の魅力を大いに引き立てる事を後に知る事となる。
歌詞にあった2つの"ズレ"
再生ボタンにもう一度触れる前に僕は「何なんw」という言葉について少し考えた。何なん、何なん、何なん。何度か口に出してみると、この言葉の特殊性に気付く。一つ目は含む感情の多さだ。強い口調で言えば怒り。抑揚をはっきりつければ苛立ち。虚空を見つめながら言えば諦観、といった風だ。そして二つ目は、"Nan"という音を2回繰り返すという点だ。この"Nan"という音は、2音目に母音が無いため、アクセントは自然に1音目に置かれる。これを2度繰り返すことで強-弱-強-弱といった抑揚が生まれ、歌に乗せずとも自然にリズムが出来上がるのである。僕はこの「何なんw」という言葉を風氏がどう調理するのか楽しみにしながら曲を再生した。
しかし、Aメロを1フレーズだけ再生し終わったとき、思わずまた曲を止めてしまった。
"あんたのその歯にはさがった青さ粉に ふれるべきか否かで少し悩んでる"
そう、岡山弁が使われているのである。彼は岡山県出身で、昨年春まで岡山に拠点を置いていた。この時(最初にこの曲を聞いた時)は、岡山弁が曲に使われていることに脊髄反射的に驚いただけだった。しかし、後にこの曲の背景を知った時、またも風氏の才能に唸らされる事となった。彼曰く、この曲は「ハイヤーセルフ」を題材にして作られている。ハイヤーセルフ、辞書には「より高い次元の自己」と書かれているが、彼の解釈では一人一人に存在する神様や天使という認識らしい。この曲ではそんな「ハイヤーセルフ」が肉体を持った自分「わし」に正しい道に進ませるべく説教や嘆願をしている。詳しくは下の動画を見てほしい。
※曲中に、ハイヤーセルフの一人称としての「わし」が出てくるが、ここでの「わし」はそれとは区別して頂きたい。
ここで重要なのは"ハイヤーセルフ"と"岡山弁"の関係性である。普段から特定の対象を信仰する人が少ない日本では、神や天使を遠い存在と感じる人が多いだろう。しかし彼は、ハイヤーセルフに柔らかい語調の岡山弁を喋らせることによって、神や天使といった存在が持つ堅苦しさを排除し、聞き手にとって身近な存在へと変貌させることに成功しているのである。ここで「何なんw」の"w"の部分も一役買っている。これも岡山弁と同様、若者言葉を使うことでハイヤーセルフと聞き手との距離を縮めさせている。これが二つ目の"ズレ"である。
気を取り直して続きを聴いてみよう。
"何があってもずっと大好きなのに どんなときもここにいるのに 近すぎて見えなくてムシされて"
ハイヤーセルフが持つのは「わし」への愛だけだ。しかし、「わし」と近すぎる存在(というより、自分自身)のため、気付いてもらえないもどかしさを感じている。
"心の中でささやくのよ そっちに行ってはダメと 聞かないフリ続けるあんた 勢いに任せて肥溜めへとダイブ"
ハイヤーセルフの忠告を無視し続けた「わし」は肥溜めへと飛び込んでしまう。
”それは何なん 先がけてワシは言うたが それならば何なん 何で何も聞いてくれんかったん その顔は何なん何なん 花咲く街の角誓った あの時の笑顔は何なん あの時の涙は何じゃったん”
ハイヤーセルフはそんな「わし」に苛立ち、怒り、失望する。
僕は再び驚かされた。風氏は「何なん」という言葉を一つの感情に限定した使い方をするのではなかった。彼は「何なん」という言葉が持つ複数の感情を全て含ませ意味付けることによって、ハイヤーセルフの持つ複雑な感情を「何なん」の一言で表現しているのだ。あるいはこの言葉が内包する感情を定義すること自体野暮で、『ハイヤーセルフは「何なん」という感情を抱いている』と言った方が良いのかもしれない。
話を戻そう。ハイヤーセルフは「わし」に苛立ったり怒ったり失望したりしながらも、それでも「わし」を愛しているのだ。後の歌詞がそれを証明している。
"目を閉じてみて心の耳すまして優しい気持ちで 答えを聴いてもう歌わせないで 裏切りのブルース"
ハイヤーセルフだって怒ったりしたくないのだ。「わし」が大好きだからこそお願いだから自分の言うことを聴いてくれ、と何度も嘆願する。
ここで再び重要な役割を果たすのが岡山弁や”w”である。これらの特性は怒りや苛立ち失望といったネガティブな感情を和らげて聞き手に伝える効果を持つ。例えば、先ほどのサビの部分を標準語に置き換えてみるとどうなるだろう。
それは何? さっきオレ言ったんだけど なら何で? 何で何も聞かなかったの? その顔は何?
まるでパワハラ上司の様である。
話が少しそれたが、これが三つ目の"ズレ"である。ハイヤーセルフは「わし」に対し、怒りや苛立ちなどネガティブな感情を持ちつつも、「わし」を心から愛しているという、一見すると相反する感情を持っている。この感情の"ズレ"こそがハイヤーセルフの魅力であり、聞き手のハートを掴むのだ。
リズムの"ズレ"
僕もご多分に漏れず、この曲に取り憑かれた。そして、10回程リピートした時だろうか、この曲に違和感を覚え始めた。しかし、その後数回リピートしてもこの違和感が何なのかは結局分からず、歯がゆい状態のままその後も聴き続けた。そしてひと月程経ち、全部で何回再生したか分からなくなった頃、違和感の正体に気付いた。最初に気付いたのはイントロの部分だった。
上のMVの0:25(ストリーミングサービスの場合は0:20)からの1フレーズをよく聴いてみて欲しい。ピアノとギターでわずかにリズムがずれているのがお分かり頂けるだろうか。このピアノとギターの部分を楽譜にすると下のようになる。ここから音楽的な話になるが、難しいものではないので少しの間お付き合い頂きたい。
上の譜面がギター、下がピアノである。これだけだと何かの暗号のようだが、ここに赤の縦線を入れ拍で区切ってみよう。
するとどうだろう。ピアノとギターが交互に弾いているのが良く分かるのではないだろうか。このピアノ側(左側)の拍を音楽用語で表拍と言い、ギター側(右側)を裏拍という。通常表拍は強く、裏拍は弱く弾かれる。故に、多くの曲はメロディを目立たせたいがため、メロディを表拍に持ってくることが多い。しかし、風氏はメロディーであるギターをあえて裏拍から始め、裏拍に重きを置いている。そして裏拍からメロディが始まるリズムは、聞き手にテンポがだんだんと速くなるかのような錯覚を与える音楽的特性を持っている。このリズムにより、独特のグルーヴ感が生み出されているのである。
長くなるので割愛するが、このリズムは、Aメロでもギターの部分がボーカルへ受け継がれ、続いている。そして極め付きはサビ前の「肥溜めへとダイブ」の部分だ。
ここでも上の通り裏拍メロディのリズムが取られている。しかし最も特徴的なのは、ボーカルの発声法だ。このフレーズは他と違いスタッカートと呼ばれる息を短く切るような発声法が取られている。これにより、更にメロディにスピード感が生まれ、「肥溜めへとダイブ」という印象的な歌詞も加わり、聞き手を一気に惹きつける。
そしてサビだ。
聞き手の曲への集中度を高めた後、張り巡らされた伏線を回収するかのように、満を持して表拍にメロディが来る。これにより、メロディは力強さと安定感を取り戻す。そして、「歌詞の”ズレ”」のパートの冒頭でお話しした通り、「何なん」という言葉は"Nan"という音が二回繰り返され、強-弱-強-弱の抑揚を持つ。この"強"の部分(つまり"Na"の部分)を表拍に持って来ることにより、メロディは力強さを増す。
少し長くなったが、これが四つ目の"ズレ"、リズムの"ズレ"である。イントロからAメロ、サビ前と、裏拍メロディという伏線が入念に張り巡らされ、聞き手は気付かないうちに曲に取り込まれる。そしてサビでメロディが表拍になり、これまでのリズムとの"ズレ"によって、聞き手の心をしっかりと掴むのである。
藤井風"旋風"
ここまで、「何なんw」について私見での考察をしてきたが、僕のような素人が語ったところで、それは彼の楽曲の一つの側面に過ぎない。だからこそ僕は彼の曲を聴き続ける。完璧に理解できないからこそ、聴くたびに新たな発見がある。
藤井風は来月、1stアルバム「HELP EVER HURT NEVER」のリリースを控え、その後Zeppでのワンマンライブも4公演控えている。これらを経て、風氏は音楽家としての大きな一歩を踏み出す。僕はその大きな一歩目をこの目で見れたことを誇りに、翼を広げ風に乗って羽ばたいていく藤井風を静かに見守り続けようと思う。
(Tom)
最後までお付き合い頂き、嬉しい限りです。またどこかで。
※本文中の考察は全て私見であり、藤井風氏の解釈ではありません。
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