映画「オッペンハイマー」を見たけれども、核兵器を開発したことを絶賛するような映画では無い。
私は「オッペンハイマー」をドイツ・ハンブルクで9月に鑑賞した。英語がそこまで得意じゃないけど、英語で見たので途中「ちんぷんかんぷん」ってところもあったのはあったのだけど、でも、これだけは言える。
映画「オッペンハイマー」は核兵器を開発したことを絶賛し、オッペンハイマーを科学者として褒めたたえる映画では決してない。
そんな映画だったら公開されないだろうし、そもそも監督のクリストファー・ノーランはそんな映画は作らないだろう。彼はアメリカを絶賛するようなタイプではなく、過去の作品を見ても、もっと思慮深い人間だと思う。そもそも、父親はイングランド人、母親はアメリカ人である。このような彼が「アメリカ万歳!核兵器があったからWWⅡは終わったんだ!」というタイプには育たないだろう。それに映画を観たところ、そういう映画では全然なかった。
私はクリストファー・ノーランに詳しいわけではないけど、物理学に関係するような内容の映画(「時間逆行」とかって物理学よね?)が多いので、彼がそういうテーマを扱う中でオッペンハイマーを描きたいと思ったのも分かる。
とにかく「核兵器を作った人間を描く映画なんて見たくない!」という意見も耳にする。見ないのも自由だ。
何度でも言うが、この映画は反戦、反核映画であり、今世界がどんどん不安定になっていく中、反戦、反核のメッセージを強く押し出す映画であることは間違いない。
クリストファー・ノーランは「アメリカが核兵器作ったのすごいよね!科学の発展だよね!名誉だよね!称えるべきだよね!」というノリで映画を作るような人間ではない。
そこを踏まえた上で見るか見ないかは自由である。
だが、世界はたぶん「その核兵器を第二次世界大戦で落とされた日本人たちの感想」を待ってると思う。
私たち若い世代は戦争を知らない、戦争を体験してない。
戦争と核保有を放棄したあとの時代を生きている私たちは「平和」を知る人類なのだ。貴重な人類だと私は思う。
戦争を知らない、戦争を体験してない私たちが世界に対して何ができるか?私はずっとそれを考えてる。
私たちにできるのは「私たちと同じように戦争をしない。核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するべきである」と世界に訴えることだと思う。
この映画を観たからと言って核を称賛することには絶対ならないし、むしろ見終わった後は「非核三原則」について強く共感すると思う。
日本では3月29日公開になると決定した。
ぜひ、春休みにご家族、友達と、同僚と、恋人とみんなで見て欲しい。でも見ることを強要してはいけない映画だ。相手が「見たくない」というならばその意見を尊重すべきだ。
唯一の被爆国として何を世界に訴えるべきなのか考えて欲しい。
そして、SNS投稿でも、友達に感想を言うでも、家族で話し合うでもなんでもいいので、「核を持たない」ということ、「戦争をしないこと」に対して話し合う時間を作るべきだと思う。
聞きたくない人、読みたくない人もいるとは思うが、戦争に反対する意見や核兵器に反対する意見を投稿してはいけないと言うルールはどこにもないので、ネタバレ(といってもほぼ史実なので書いてもそこまで問題はないが、ノーランの描き方などについてはネタバレに当たると思う)しないように意見を投稿してほしい。
予告編が届いたので、ここに貼っておく。
重要なのは当時(戦時下の!)のアメリカ社会、アメリカ軍側だと思う。
私は1985年生まれだけど、祖母が私の母を産んだときすでにアラフォーだったので、祖母は大正11年生まれでバリバリ戦時中を知る人だった。
今の平和な日本に住む私たちから見たら、「なんで当時の日本人(もしくは他の国でもいい、ドイツ人とか)は戦争に反対しなかったんだ?今のロシアとウクライナの戦争を見て、世界はロシアが仕掛けた戦争に反対してるのに・・・」って思うだろう。
祖母から聞いた話によると「反戦運動なんてしたら家族全員が警察に捕まって拷問される可能性もあった。戦争に反対するような発言は公の場では言えなかったし、たとえ自分が仲良しだと思ってる友達の前でも言えない。家族の前でも言えない。どこでどうやって話が漏れて、警察に捕まるかわからない状況だった。日本万歳!以外言えない社会だったんだよ」とのこと。
今の何を言ってもいい民主主義的な社会は戦後の産物で、戦時中には自由に意見を言えるような状況でなかったのは間違いない。
それは日本だけではなく、おそらく世界中でそうだったんではないだろうか。
祖母は8人くらい兄弟がいて、祖母は上から2番目で唯一の女性だった。
他は全員男!祖母の上のお兄さんは戦争で戦死してる。
戦死したあと、兄の遺骨ですと兵隊さんが家に遺骨を届けに来たという。
その遺骨は両手に収まるくらいの箱に入っていて、中を開けてみたところ、両手に乗るくらいの大きさの木の枝のようなものだったという。人間の骨ではないのでは?と思ったと言っていた。
それでも文句は言えない。兵隊さんに「ありがとうございました。お世話になりました」と家族全員で頭を下げたと。
兵隊さんの姿が見えなくなって、玄関の引き戸を占めて祖母の母親が吐き捨てるように言った。
「これはカツトシ(祖母の兄の名前)じゃない」と。
そして、その遺骨を玄関に放り投げて、部屋に閉じこもってしまったと。
戦時中というのは、外側には「戦争に賛成してます!日本万歳!日本は強い!勝ってる!すごい!」みたいに日本を大絶賛しなくてはならなった。もちろん、中には本当にそう思ってる人もいたけど、祖母は「私は日本が勝ってるなんて思ってなかったよ。だって、もし勝っていれば生活がよくなっていくはずだもの。なんでどんどん貧乏で貧しくていろいろなものを軍にあげなきゃいけないのよ?お寺の鐘から、家の鍋まで。おかしいでしょう。新聞もラジオも日本が勝ったとしか言わないけど、生活と比べたら矛盾してる。おかしいと思ってたよ。」と言っていた。私は「それを誰かにはなさなかったの?」と聞いたけど、「そんなこと言えない雰囲気だったんだよ。」と言っていた。
ちなみに祖母はサツマイモがあまり好きじゃなかった。私や母がすきだからよく蒸し器で蒸かしてくれたけど、たくさん食べなかった。祖母に「なんで食べないの?おいしいのに」と言ったら、「おばあちゃんは戦時中に嫌ってほど食べたからね」と。戦時中に疎開していた場所で、お米がなくなって、サツマイモを埋めて増やして自給自足していたことがあったようだった。(サツマイモは苗を切って増やすことができる)
戦争というのはそういう、私たちからしたら日常の些細なことにも影を落とすんだなと大人になってから思った。
祖母は東京の下町から新潟のお寺に疎開していたので凄惨なシーンを目撃はしなかったようだが、それでも若い20代の本来は一番楽しい時代を戦争でつぶされてしまった祖母の心には少なくとも傷があったと思う。おそらく、サツマイモだけじゃなくて。
全部を知ることは孫の私には無理だったし、祖母は心に抱えながら誰にも言わなかったこともあるかもしれない。今は極楽浄土で楽しく暮らしてるはずだ。
なんとなく戦時中のイメージを理解してもらえただろうか?
これはもちろんアメリカでもそうだった。
「強いアメリカ」であって、「アメリカすごい!俺たち強いぜ!」といった雰囲気があったと思う。それは映画「オッペンハイマー」を見ても感じてもらえると思う。
オッペンハイマー自身がそれをどう捉えていたかも見たらわかる。
何が言いたいかというと、結局のところ、こういう状況下になると極右化していく。全員右だ。最初そう思っていなくても、たぶんどんどん飲まれて行って極右化していてってしまう。
その波が一番怖いと思った。その波を二度と日本で、世界で作ってはいけない。私はそう思うけど、世界はコロナ禍を経て、どんどん右になっていく。
それが一番怖い。その怖さは映画「オッペンハイマー」を観たらわかると思う。
私たちは現代から戦時中を覗いているに過ぎない。
映画「君たちはどう生きるか」は戦時中の日本が舞台だが、この映画の冒頭でもその戦争の「こうしなくてはいけない」という怖さが描かれている。それが当時の「普通」であって、今から考えたら「はぁ???」ということも当時では「普通」なのだ。それを今の価値観や視野で「そんなのは間違っている!」と怒るのはいいけど、当時の人たちがおかしかったわけじゃなくて、社会が彼らをそうさせていたというだけ。
美徳でもなんでもない。あれはただの当時の慣習であり、そうするものであっただけだ。現代からあれを覗くと「気持ち悪さ」しかないだろう。もちろん国に奉仕して亡くなった多くの兵士たちの命の冥福を私は祈っているし、もし私がそれを祈らないとなると、戦死した祖母の兄を侮辱することになる。そんなことは子孫の1人としてできない。家族なのだから。
私の祖母だって戦時中に戦争に反対しないで、兵隊さんが出兵するときには「ばんざーいー!ばんざーい!」ってやって送り出していたし、千人針に参加したこともあっただろう。では、祖母は戦争に賛成するヤバい奴か?そうじゃない。祖母はそうしなきゃその時代を生き延びられなかったし、家族や友人を守るためにそうしていただけだった。それは祖母から聞いているので確かだ。
私たちはその後のいろいろなことを経て価値観が大きく変化した現代からその時代を覗いているだけにすぎない。その「その後のいろいろなことを経て」がなければ私たちの価値観は今みたいになっていないということを理解しなくてはいけない。わたしたちは突然その価値観を持って生まれたみたいになってるけど、この価値観と言うのは、そのあと「間違ってる」って思って、たくさんの人たちが戦って勝ち取った価値観や視野であるという歴史を軽視できない。しっかりとそこの歴史の重さを感じなくてはいけない。
ポスターデザインを変更したのを確認した。
こちらが日本のポスターデザインである。
後ろに描かれているのはオッペンハイマーが核実験をした場所にある塔である。核兵器そのものは描かれていない。(予告編を見たらこの塔が出てきてるのでネタバレではないし、史実である。)
こちらが日本以外の国で使われたポスターである。
後ろには核兵器が描かれている。
私たち日本人からすると、本国のポスターはまるで核兵器を称賛しているようにも感じる。核兵器の恐ろしさを伝えるビジュアルなのは分かるが、それがすべての人に正しく伝わるとは限らないし、日本では核兵器を目にしたくないという方もたくさんいらっしゃると思う。
鑑賞について、気を付けるべきこと。
核兵器によって亡くなった家族を持つ方、核兵器の影響で病気に苦しんでる方、そのご家族。私たちが住む日本にはまだそういった方々が生きて暮らしているのだから、ポスターの変更は当たり前だと思う。
また、そういった方々がこの映画を受け入れられない、見たくない、見ないといったことも当たり前だし、それを他人がジャッジしてはいけない。
この映画を観ないからと言って反戦の気持ちや反核の気持ちがないわけではないのだから。
見るも見ないも「個人の選択」であり、それは尊重されるべきである。
誰がどんな背景を持っているかなんてわからないので、この映画について日本国内で語る場合は注意が必要だとは思う。
語る際のことばには気を付けてほしいし、映画を見に行かないかと誘う場合も相手への声のかけ方などを工夫した方がいいとは思う。
見ることを「強要」したり、この映画を観ることを相手に隠してサプライズなどはしてはいけないと思った。
(※つまり学校の映画鑑賞教室などで強制的にこの映画「オッペンハイマー」だけしか選べない状態で映画館に行くなどはしない方がいいと思う。)
平和を考える上で日本人にとって重要な映画である。
私個人の感想としては、監督のクリストファー・ノーランはこの映画を通して、核の恐怖、核が世界を変える力を持っていること、そしてそういったものを所有し続けることに対して、反対の意見であると感じる。というかそうじゃなければこの映画を、この時代に作っていないと思う。
戦時中の核兵器使用、その後の冷戦を経て、核保有による抑止、そしていままた世界で大きな争いが起きているという事実。
ノーランは危機感を感じていて、彼が使える映画という方法を通して、社会に危機的状況であるということを伝えたいのだと思う。
強く戦争や核兵器に反対すべきだということをノーランは言いたいのだろう。それがこの映画のメッセージであるということは最後に念を押しておきたい。ノーランは核を称賛してはいないし、アメリカの勝利を称賛もしていない。映画を観れば分かる。映画を見に行っても核や戦争を称賛する立場を表明することにはならないし、アメリカ側のミカタをするようなことには絶対ならないので安心してほしい。
平和を考える上で、この映画を観ることはとても大切だ。
私ははっきりと言える。
戦争には反対である。問題を武力で解決するという方法を人間が続ける限り私たちはずっと愚かなままである。私たち人間は言葉を話せる。なんのために人間に言葉が授けられたのか考えるべきだ。私たちは動物のように弱肉強食ではない。すべての人間は平等である。私たちは言葉でお互いを理解することができる。もちろん動物だってできるけど。人間には高度な言語能力があるのにそれを活用せずに、暴力的な行為で相手をねじ伏せようとするのはおかしいと思う。
また、私は核兵器には反対だ。抑止だなんだと言われるけど、とにかく核を所有する国はすべて今すぐ廃棄すべきだ。持ち続けているから、均衡が保たれていると考える人もいるかもしれないが、この映画「オッペンハイマー」を見て、それでも「核の所有は国際関係上の抑止に必要不可欠だ。」と言い切れるのか?と思った。私は核はこの世界にいらないと思う。広島や長崎を知って、それでも核を所持し続けるべきだとは私には言えない。
映画がいい映画なのか、「好きじゃない映画」なのか、オッペンハイマーの描き方がどうか、などの細かな好き嫌いは分かれると予測されるが、それはこの映画の主題とは少し離れていて、いずれにせよ反戦・反核の映画である。そこのポイントはブレてはいけないと思う。
また、映画を観終わって、オッペンハイマーを責める気持ちがあるかと言えば、「ないわけではない」と思う。ずっと「今なら遅くない。今だったらストップできる。まだ戻れるよ!」と心の中で思っていた。でも私たちはすでにそれが「起きたこと」と知っているので、見ながら心がとてもざわついて、途中からもう放心状態というか、心臓がバクバクしたし、体から血の気が引いていくような感じがした。想像したら涙がでた。その感覚はおそらくだれでも感じるものなので、ある意味「核兵器の怖さを体で感じることができる映画」とも言える。ぜひ、体感してほしい。いや、体感なんて言えない。実際の原爆はこんな体感じゃ表せない。もっと痛くて、苦しくて、熱くて、泣き叫びたくても声も出ないまま、何が起きたか分からないまま、ただ苦しんで命を落としていったんだから。
この映画を観て核を知って、怖いと思って、反対する気持ちになってほしいと思う。
最後に!
これは気になっている方がいると思うので、書いておく。
これはすでに知られている話でネタバレに値しないと思うが、ノーランはこの映画で広島と長崎に原爆が落ちたあとの状況はあえて描いていないようだ。
今私が数行前に書いたように、「本当の原爆」はその場にいた人たちにしか分からない。映画というある意味ニセモノの世界でそれを描いても、それ以上の苦しみをスクリーンを通して伝えることはできない。だからノーランはそれをしないという選択をしたのではないだろうか。
でも、少しだけショッキングな、心臓が止まるようなシーンはある。私も心が痛んだ。それだけは書いておく。でもほんの少しであって、それはオッペンハイマーの心を描く上で必要なシーンであるということは理解できる。そして、そのショッキングな描写も、ノーランはリアルには描かなかった。それはきっと、「本当の原爆」を考えた時、映画での表現はそれのイメージを作り上げてしまい、「本当の原爆」の恐ろしさを弱めてしまうと考えたからではないかなと思った。
広島の広島平和記念資料館では、かつて、原爆が落ちた直後の様子を人形を使って、表現している展示があった。私も祖母からそのような展示があるというのは聞いた。実際私は目にしていない。
しかし、この展示も実際の被爆者で、その場にいた方々からは「原爆が落ちた直後の現場はこんなものではなかった。」という声があったそうだ。
ここにそれについて語られている記事と該当の展示の写真を貼るが、写真を見たくない人もいると思うので、テキストリンクだけにする。
確認したい方だけクリックしてみて欲しい。
「原爆は過去の話ではありません」 被爆再現人形の撤去について、24歳のボランティアガイドが考えたこと
https://www.huffingtonpost.jp/masaaki-murakami/hiroshima-peace-memorial-museum-display_b_16201594.html
展示では人間の皮膚が垂れ下がって手を前に突き出しながら歩く姿の人々(人間は普通歩くときに手を体の横につけて歩くが、皮膚がべろりと剥がれ落ちてしまった人は体の横に手をつけることができないため、手を前に突き出していた)が描かれていたようなのだが、当然これは展示なので、粉塵が混じった空気や燃えるような熱を帯びた空気、地面からの熱、そして人が焼けた匂い、人々が口々に叫んだり、誰かを呼ぶ声・・・といった視覚以外の情報を伝えられないのだ。ある程度は再現可能だが、それは実際とは何億倍もの差がある。事実ではない。
映画も同じだ。映画で私たちが感じ取れるのは主に視覚と聴覚で、映画というのは目でみた視覚と耳で聞いた音声から感じ取る情報でどれだけ心が動かされるのかというものだ。4DXなどもあるが、完全に映画の世界を表現することは不可能だ。
この広島平和記念資料館で展示が撤去された背景を知ると、今回ノーランが詳細に描かなかった理由も理解できる。決して軽視しているわけではなく、ノーランは広島や長崎の人たちのことを考えていると思った。
<END>
※ここに書いたことは私の個人の意見である。
これと同じことをXにも投稿したことがあるが、オッペンハイマーという人物そのものについての批判をコメントしてもらった。私はオッペンハイマーではないし、ノーランでもないので、その意見について何もできないし、この映画に対して「オッペンハイマーを美化している」と思う人もいるかもしれないが、それも一つの個人の意見として述べることは自由である。
私はこの映画についていかなる論争も望んでいない。(バーベンハイマーの件についてなどは私はこの記事であえて触れていない。)
ここでのコメントでのやりとりには一切応じないということは明記しておく。