『EMDR 外傷記憶を処理する心理療法』を読み、PTSD治療を考える
フランシーン・シャピロ著『EMDR 外傷記憶を処理する心理療法 』を初めて読みました。*EMDR=Eye Movement Desensitizaition and Reprocessing=眼球運動による脱感作と再処理方法
本書を紐解くと、その内容は心理療法における治癒の機序の一面を掘り下げたものであることが分かります。また、その態度や聴き取り方など治療のプロトコルについても厳格に定められています。センシティブな取り扱いが要求されるセッションにおいては、特に初学者の段階で読んでおきたかった、というの率直な感想です。
なにしろ、眼球運動と心理療法という組み合わせの珍奇性ゆえか、強く興味を惹かれながらも手を出しかねていました。
フラッシュバックへの対処の実際
公的資格の元に心理支援を生業にする我々にとって、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)は避けて通れないものです。資格試験の出題範囲である以上に、PTSDの影響下にあるクライエントに出会う機会が多いことに気付かされるのではないでしょうか。精神科であろうと学校であろうと、施設相談であろうと、領域を問わずです。
こうした実情に合わせるように、令和6年度の診療報酬改定では、公認心理師による「心理支援加算」が新設され、「心的外傷に起因する症状を有する患者に対する心理支援」が対象となりました。疑義照会では「必ずしもPTSDの診断基準を満たす必要はない」と明記され、その裾野が広いことが示唆されます。逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experience : ACE)やマルトリートーメントといった、その影響の深刻さを示す研究の蓄積も背景にあると考えられます。いじめやハラスメントが法律で罰則の対象となったことなども重なります。
身体症状を含む、多様な症状を呈するPTSDの臨床においては、その治療機序がどこにあるのか探る中で、多くの臨床家はEMDRに出会うことになります。しかしながら、そのプロトコルの厳格さもあり、わたし自身がそのトレーニングを受けるまでには至りませんでした。限られた資源(お金と時間、専門家)や隔離された環境(地方)においては、特異な技能を身につけるよりは、幅広い臨床的事態への対処が優先しがちです。リファーしようにも、それができる施設は少なく、あっても遠方の都市部です。
中でもフラッシュバックは、症状が目立ちやすく、生活に影響を与えやすいことから、もはや臨床上、確認すべきことの筆頭と考えて良いかもしれません。希死念慮や自傷行為にも繋がりがちです。支援関係の中で、あるいは支援関係の外でどうやって対処していくか、臨床家それぞれにオリジナルにスキルの機微を身につけていることと思います。
こうした臨床感覚からすると、EMDRで記述されたエッセンスは、最前線でのやりくりで身につけざるを得ない技能の集合体という風に見えます。しかしそれでもなお、構造化された治療のプロトコルを経て見える風景はまた違ったものになりました。
気になったいくつかの点について述べます。
EMDRと認知的ワクチンとの共通性
EMDRの白眉は、眼球運動と外傷記憶という、一見、無関係に見える2つのシステムが影響を与え合い、ある種の治癒をもたらす点にあるでしょう。
EMDRに触れると、以前、オンライン版のナショナルジオグラフィック誌に引用された興味深い研究を思い出します。スウェーデンはエミリー・A・ホームズ教授の研究です。それは、フラッシュバックの軽減にテトリスが有効というものです。
これは、認知的リソースを、テトリスで喚起された視空間イメージに集中して、トラウマ記憶が固定するのを防ぐというモデルです。ちなみに、数字の逆唱など言語的課題は、フラッシュバックを増加させるということですので、テトリス的課題への集中が特に有効だと推論できます。デブリーフィングが、PTSD症状を悪化させがちと言われるのもこの研究が裏付けます。論文ではこうした介入を認知的ワクチンと呼んでいます。
臨床的な応用に想像は膨らみますが、ここでは治癒の機序についての個人的な論考にすすみます。
EMDRは、フラッシュバックだけでなく、出来事の記憶や悪夢、引き金の音などにも焦点を当てます。両治療は適用範囲が異なるものの、フラッシュバックにも有効という点で機序を共有していると仮説を立てることができます。また、EMDRが、すでに固定化したトラウマ記憶にアプローチするのに対して、認知的ワクチンは、予防的に投与するというアプローチをとります。
いずれにしても、EMDRと認知的ワクチンの両治療に共通するのは、「トラウマ記憶(orその周辺症状)」+「視覚刺激にともなう眼球運動」のセットであるように見えます。
これらの異同については、論文の中でも言及されており、わたしのオリジナルな考えではありません。
描画療法の機序にも似ているところがあるかもしれない
そこでまた思い出すのは、カウンセリング(心理療法)における描画です。
何で良くなるのかは分からないけれど、効果があるっぽいことを心理療法家たちが実感しているのが描画です。クラエントに「何の意味があるんですか?」と良く尋ねられますが、とにかく役に立つとしか答えられません。理屈はともあれ、カウンセリング(心理療法)の効果が明らかになるのは、常に事後です。
以前から気がついていたのは、描画の正体が、丸や三角、四角、直線、といった幾何学図形の組み合わせ課題であるというものです。クライエントには、単純に図形を並べたような描画をされる方がおられます。こうした描画と、いわゆる絵画らしい描画との間に、どういった違いがあるのかずっと考えてきました。数学の入門書を漁ったり、線遠近法の歴史などにも行き当たり、これはこれとして興味深い現象ということが分かります。
さて、描画の正体を幾何学図形の組み合わせ課題と仮定すると、それは(立体的)テトリス的課題と限りなく等しくなるのではないでしょうか。テトリスも、正方形(=テトラ)という図形の回転、あるいは組み合わせ課題です。
描画に卓越された中井久夫先生はたしか、その実施回数における効果の限界について20~30回と述べてました(出典を見つけられませんでした)。EMDRも認知的ワクチンは、PTSD症状やフラッシュバックという限定的な症状を対象にしており、その効果の時間的あるいは頻度的な限界が想定されています。わたしの臨床経験でも、フラッシュバックそのものへのアプローチは比較的短い期間で一定の作業を終え、次の課題フェーズに移行する印象があります。
すごく間接的ではありますが、その効果の時間的あるいは頻度的な限界の面でも機序を共有している気配を感じるところです。
もちろん、中井久夫先生のお話は、統合失調症の回復期の患者さんへの適用ですので、EMDRや認知的ワクチンと同列に扱えません。しかし、幾何学図形の認知的回転課題の機序を狭くとらえずに、いまいちど適応範囲を広く見ていく方向もあるかもしれません。
それでもEMDR(認知的ワクチン)とカウンセリング(心理療法)は根本的に異なるコンセプトを持っている
これはEMDRとは少し離れてしまう話題で恐縮ですが、EMDRを知ることで「(心理)治療のコンセプト」が明確になります。
カウンセリング(心理療法)における描画は、必ずしも特定の狙いをもってなされるわけではなく、なされるべきでもないことが多いと思います。少なくともユング心理学におけるカウンセリング(心理療法)において、ですが。PTSDの症状が軽快することは良いことではありますが、PTSDにまつわる内容が特別なテーマになる必然性はありません。セッションで想起されるイメージや痛み、喜びなどが広く構成要素になり、本質的な対象はそのクライエントという事象全体です。わたしがここで論じたような治癒の機序は、あまり細かい分析の対象になりづらい印象を受けます。逆に、セラピストがそこにこだわり過ぎると治療が変な方向にいってしまう場合も多いと思います。
何を治癒とするかは(半ば意図的に)ブラックボックスです。科学的でも実証的でもありません。それゆえに有効、というパラドックスも生じます。カウンセリング(心理療法)において、「今ここの出会い」と「聴く」ことへのセラピストの専心が最大の治療の構成要素です。
EMDRと認知的ワクチンは、それぞれPTSD症状とその中でもフラッシュバックを狙いとしていますから、カウンセリング(心理療法)の治癒の機序を共有しつつ、その治療のコンセプト自体が全く異なったものだと言えるでしょう。
これらに良し悪しはありませんが、臨床の文脈によって使い分ける必要があることは言うまでもありません。開業の心理療法とスクールカウンセリングでは、意図的にポイントを変えなければいけません。
EMDRの限界とPTSD治療の全体性
EMDRみたいながっちりプログラムに触れると、それだけで羨ましくなったり、自分の(日本の?)臨床がだめなんじゃないかと思ってしまいがちです。
しかしシャピロ博士はこんなことも言ってます。
しごくもっともなご意見です。
PTSDの治療は長いお付き合いになることがほとんどです。
PTSD由来の直接的な症状に、さまざまな困難が重なります。無理をしないで済む生活資源の確保や負荷のかかり過ぎない仕事、不快な思いをしない人付き合い、気持ちの良いお風呂の入り方、なんていうことも大事になってくると考えると、特定の治療だけではなく、生活全体をつくっていくみたいな実際的なことが問題になっていきます。
PTSDが生じやすい文化的背景や幅広い意味での傷つき体験の受容のされ方など、コミュニティのあり方もとても重要な要素になる気がしています。EMDRはアメリカ発祥のプログラムですので、構造化された治療が析出せざるを得ない切実な事情もあるはずです。今回は深入りしませんが、日本でのトラウマのあり方に特徴があることは、岡野憲一郎先生がブログの中で触れられていたかと思います。
トラウマの原因がはっきりしないことも多いですし、トラウマだとして、そこに意識を向けるにも準備された受け皿が必要です。かといって「触れない」ことは、後々もっと大きく複雑な問題として噴出する可能性が高まります。EMDRのプログラムを習得することと、それを実際に適用すること、PTSDという様相全体のケアを構想することは別次元の問題と考えた方がよさそうです。
EMDRの知見は貴重ではありますが、臨床の最前線にいることにかけては心理学的に同質です。EMDRがあったらもっとよい仕事ができる、と考えるべきではありません。わたしとクライエントのこころの問題の最前線は「常に今ここ」にあります。EMDRを知らなくても、何かはしなければいけません。
個人的に、PTSDの治療(支援)は、服薬やカウンセリング(EMDR含む)以外のリソースも、ゆるくさまざまに組み合わせることができると良い、と考えています。
専門家のリソースが潤沢とは限りませんし、精神科医や公認心理師(臨床心理士)が欠けたからといって支援が成立しない、という事態は避けなければいけません。精神保健福祉士や保健師、職場、学校、ご家族…。治癒の契機も、どこにポイントがあるのか判然としない。複数の点で支えて、期待値を高めるのが理想です。自助グループや整体、骨盤矯正、ヨガ、マインドフルネス、温泉、スポーツ、訪問看護、生活支援。。。各事業者がネットワークでつながり、スマホアプリを介して好きなプログラムを選択していく。
こうなると、別にPTSDに限ったことではなくなります。PTSDやトラウマといった言葉は、あくまで概念やラベルです。現実の臨床や生活においては、PTSDやトラウマという切り口になりきれない近縁領域が広大です。
あるいは、低所得世帯の支援プログラムや従業者の福利厚生、自治体サービスとも共通化することで、相対的に低コストで提供が可能になるかもしれません。
医療者に一任するだけでなく、広く支えていく仕組みが必要に思われます。
インターフェースとしてのEMDR
シャピロ博士が、EMDRを「インターフェース」と定義していました。とても興味深い考えです。
インタフェースとは、
EMDRという心理療法が実体的に存在するのではない、ということに思えます。効果的な技能の集積に名づけている。とても機能的です。
普及する技能というのはこのようなものなのかもしれません。