題:紫式部著 「紫式部日記」を読んで
テレビで紫式部のドラマを行うというので、見るか見まいか迷っている。映像で紫式部を見ると、私自身の紫式部像が崩壊してしまうためである。たぶん、初回だけ見る確率が高いだろう。後はたぶん見ない。「紫式部日記」などを読んで得た私の紫式部像を大切にしたいためである。作られた映像よりも文章を重んじたいためである。なお、この像は主に「紫式部日記」から得たもので、感想文を2016年11月に記述している。この感想文を以下に紹介したい。
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「源氏物語」は以前、岩波古典文学大系で読んだことがあるけれども内容は殆ど忘れている。ただ、どちらかと言えば否定的で、あまりその値打ちを認めることのできない印象のみが残っている。ところが、最近「源氏物語」は良い作品ではないかとの思いがするのである。まあ、どちらでも良いが、ともかく紫式部に関心を持ち、この「紫式部日記」を読んでみることにした。すると紫式部なる人物が分かってきた。合わせて「枕草子」も眺めてみる。すると紫式部と清少納言の文章や人物の違いも少しは浮かべることができたのである。感想を全部書くと長くなるので少し間引き、本文をできる限り引用して、簡略化して述べたい。引用は、『 』で示したい。
何年か前、「口座 日本思想3 秩序」の「己の表現としての秩序」なる論文を読んだことがある。その時、感想文を書いているが引用すると、
『「伊勢物語」や「源氏物語」などを中心に、人間関係と言語表現の間で屈折する神経を論述していて面白い。多彩な使用例を見ると、やはり日本語は難しいと感じたものである。簡単に言えば「為手」と「受手」の尊敬・謙譲・丁寧が、著者の論述によるともっと複雑な表現になる、これらの言語的表現について著者は論じている。更に言語が対象について述べるなら意義領域としての「対象的意義領域」と「主体的意義領域」に意味が広がるはずだと論じていて、紫式部の日記がこれらの領域の両方を交え表現しているとの解説はなるほどと納得できるのである。例を取り上げたいが省略。なお、日本語は「伝達の言語」であり、西洋の言語は「認識の言語」であるとする。この日本語は主体的意義を富ませて、対象を柔らかく包み込み己との調和と秩序を保つ日本的な精神構造を形成している。この日本語の言語と精神とが表裏一体として作動していると著者が述べる時、日本的な精神の特徴を垣間見た気がする』
と記述している。なお、著者は『言語というものは、人が、対象について述べることの形式である』と規定しているが、この対象の意義が主体側にあるのか対象側にあるかに区分される。無論、対象と主体側の意義の割合はアナログ的に変動しているはずなのは注意すべきである。
「己の表現としての秩序」の著者は、この主体と対象の変動の割合を論じることはせずに、「紫式部日記」の冒頭の文章を捕らえて、対象的意義領域に自らの姿勢を交え語っていて魅力的だと述べている。確かに魅力的で美しい文章ある。本短論文では他の古典文学も交えて論じているために、「紫式部日記」に関する記述はこの程度である。「紫式部日記」の文章は、こうした論旨を超えて記述されている、即ち、「主体的意義領域」のみで記述されている部分があり、その主体の主張に圧倒される箇所がある。まるで夏目漱石の「吾輩は猫である」の文章と同様に主体の途方もない饒舌である。紫式部の場合、夏目漱石と異なり、鋭い文明批判ではなくて思うままの人物批評である。そして自らの身の上を嘆息している。文章も出だしの美しさとは異なって、長々と続き思いが混乱しているかのごとくに思われるほど、心情が屈折している箇所もある。まさに現代人と同等に、それ以上に閉鎖的な宮廷世界に悩み苦しんでいたのである。そして、人への批評は皮肉を含んで鋭い。ただ、世における身の処し方を覚えていて、外面的にはそうした舌鋒を行うことなどなく穏健に暮らしていたらしい。孤高の精神を持って物語の記述に勤しんでいたのかもしれない。こうした著者が本日記に記述されているように、四季の風景や儀式などを心の底から楽しんでいたならば幸いである。
こうした紫式部の文章や心情について述べる前に、「紫式部日記」の構造について、また紫式部の人と成りを述べておきたい。「紫式部日記」は紫式部の仕えた一条天皇中宮彰子の皇子の出産とその経緯、内裏への戻りや諸行事などの感想を述べると同時に、仲の良い従妹へあてたものか消息文と言われる部分から構成される。無論、現在残っている文書は書き写しの変遷や編纂などを経てまったくの原文とは異なっているらしい。紫式部は文才をかわれて中宮彰子に上臈女房として仕えることになるが、父は受領層の不安な生活を送り、紫式部もこの現実的な重苦しい生活から相当影響を受けている。ただ、文才に恵まれていたために完全に沈鬱な生活からは逃れ出れたに違いない。歳の離れた夫を持つが、すぐに夫は死んでしまう。一子女の子、賢子をもうけて、若くして寡婦になる。この子は天皇の乳母となって従三位まで昇る。紫式部は四十歳前後に亡くなっているらしいが、没年不詳など分からないことが多いらしい。「紫式部日記」は六十ページ余りで、「枕草子」の約三百頁に対して少ないけれども、もっと多ければ読みがいがあるとも思うのである。
美しい出だしの文章はこうである。なお、本書は現代語訳がないので文章の表現内容は注を頼りに思い浮かべている。
『秋のけはひの立つままに、土御門の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじじ色づきてわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あわれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる』
土御門の秋の風情を見聞きしている作者が書いている文章である。風景の描写と作者の思いが一体となっている。簡単に我流に一部現代文に訳すと、地の風景も色づいて空も艶ともてはやされて、涼しい風がそよめき、読経の声々や水の音も夜もすがら混然となって聞こえてくるとなる。そして、若宮誕生後に行われた諸行事などが日を追い、五十日後の祝儀を含めて続いている。更にその後の中宮御所での出来事も客観的に仔細に記述している。無論、藤原道長の記述もある。
次に、他者との交流の難しさを、自らを苛みかつ幾分孤高の心境を交えて述べた文章を引用する。いわゆる主体的意義領域のみの文の一例を示したい。
『こころみに物語をとりて見れども、見しやうにもおぼえずあさまく、あわれなりし人の語らひあたりも、われをいかにおもうなく心浅きものと思ひおすらむと、おしはかるに、それさへいとはづかしくて、えおとづれやらず。心にくからむと思ひたる人は、おほぞらにては文や散らすらむなど、うたがはるべかれめば、いかでかは、わが心のうちあるさまをも、深うおしはからむと、ことわりにていとあいなれば、中たゆとなれど、おのづからかき絶ゆるもあまた。住み定まらずなりにたりとも思ひやりつつ、おとなひくる人もかたうなどしつつ、すべて、はかなきことにふれても、あらぬ世に来たる心地ぞ、ここにてしもうちまさり、ものあわれなりけり』
本文章の趣旨はこうである。物語を読んでも面白くないし、共に語った人もきっと心浅い人と見なしているだろうから恥ずかしくて訪れることができない。心持の高い人(心に憎からん人)も私の心を推し量ってくれるわけもなく、行き来がなくなる。また、自然との交際が絶える人も多い。私が何処に住んでいるか分からずに訪れる人もなく、ちょっとしたことにつけても別の世に来ている気持ちがする、ここではこうした気持ちが募ってきて、わけもなく悲しい気持ちになる。この文章には少し卑下気味に屈折した心が表れている。他人の紫式部をみる目が式部からすれば自らを軽んじていると推測している点にある。心浅い人と見なしているだろうし、また心持の高い人が紫式部に手紙を送っても文を散らかして見られてしまうと邪推して、式部の心推し量ってくれわけでもないと言い切っている。これがへりくだりのはずはなくて、式部の疑念する心の内をそのまま表していると取るべきなのだろう。もしかすると、「紫式部日記」は内裏を去ったのちに書いたのかもしれない。
次に、寂寞を超えて孤独な歌である。女房の局に男たちが訪れている時に歌ったものでもある。
『としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな』
式部に訪れてくる男はいない。なぜであるのか、式部は自己解説をしていない。単刀直入に直接的にすざまじき心の内が表現されているこの歌は苦悩を超えて静音さがある。
他人を批評した文の一部であるのは、いわゆる消息文の一例である。
『和泉式部という人こそ、おもしろう書きかわしける。・・それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりいたらむは、いでやさまで心は得じ』『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。・・』
和泉式部の歌は美しいが、他人の歌を批評することはできまい。清少納言は高慢な顔をして、大変な人だ・・など、こうした批評文は個人を特定しなくても結構多い。ただ、この批評は的確とも思われるが、妬みなどが含まれているかは判然としない。きっと式部が思うままに書いた文章であろう。
日記の最後の文章は楽人による演奏の描写で終える。雅楽の音が聞こえてくるようである。それにしても最初にも述べたが、紫式部という人は教養も高いが自尊心も並々ならず高い、一方屈折して荒涼とした心の持ちながらも表に出すことは無い。自らの分際をわきまえていたのである。文章はやはりとても上手だと思う。そして、どうしても夏目漱石と比較してしまう、疾走する筆の具合と寂寞とした心と悩み苦しむ思いである。ただ漱石の筆は走り過ぎて狂気じみてくることがある。ただ、人の批評はあまりしなかったし、いや、むしろ結構批評している。付き合うべき友人や弟子も結構いても、孤独の内に生きていたのである。こうしてみると平安時代と明治時代と今現在でも人の心の内はそうは変わらない。自らの生きる時代の自らの思いを汲み取り感じて表現する人間そのものに変わりのあるはずはないのである。
清少納言の「枕草紙」についての記述は省く。
以上