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エマニュエル・レヴィナス著 合田正人編集・訳 「レヴィナス コレクション」を読んで
本書は様々な短論文が掲載されている。それも密度が濃いものが多くて読むのに難儀した。第Ⅰ部と第Ⅱ部分かれていて、合計21篇ある。論文の種類を簡単に述べるなら、フッサールの現象学について、スピノザについて、自らの著書「全体性と無限」などについて、それに逃走論や多元論や存在論が含まれている。どう感想文を書こうかと迷ったが、合田正人が「解説―ラグタイム」にて、このあとがきも中身の濃い物であったが、「経験」「経験論」「超越論的」という措辞の内容が浮き彫りになるように編集したとの記述があったので、フッサールの現象学を中心に感想を書きたい。「解説―ラグタイム」では、論文の内容を多彩に広範囲に記述しているが、「超越論的」の言葉は、現象学関連の本書の論文と、他の他の哲学者・哲学的思想も含めて記述しているが、現象学を中心に参考にした私なりの解読結果を記述したい。
現象学的に関連する本書の論文には、「諸構想」を詳しく紹介した『エトムント・フッサール氏の「諸構想」について』と、感想を短く記述した『フライブルク、フッサール、現象学』と、超越論について紹介した『書評Ⅰ―「哲学と現象学誌』とがある。「諸構想」の論文は、哲学的な諸問題は、それらを解決可能たらしめる新たな仕方で提起しているとレヴィナスは述べている。ここで、少し面倒になるが、自分のためにも、この書物の内容及び使用されて単語を理解できる範囲で簡単に紹介し、現象学に関する予備知識を仕入れておきたい。なお、スピノザ関連は、別の機会に記述したい。レヴィナス自身の著書「全体性と無限」や「実存から実存者へ」、「時間と他者」などは既に感想文を記述しているので、本書の内容を参考にして若干の修正を行い、機会があれば投稿したい。
哲学書を読み理解するためには、言語、特に一つの言葉の持つ意味を把握しておくことが重要である。全体の理解に大いに関わってくるのである。さて、『エトムント・フッサール氏の「諸構想」について』ついてのレヴィナスの論文は、既に述べたように、哲学的な諸問題は、それらを解決可能たらしめる新たな仕方で提起していると述べ、「諸構想」の四つの部の構成に従い、それぞれ順を追って解釈していくのである。第一部 「本質と諸本質の認識」では、どんな思想も実在するしないに無関係に、対象として純粋な意味として描かれるのだから、この対象の特質について語ることができるのである。ここでレヴィナスは、ある対象の本質とは「それに帰属するはずの」複数の本質的述語の総体であり、他の対象との諸規定が付与されると述べる。対象の本質に達するために、変更を貫く何かが、不変で同一的な何かが属性として貫いていて、これを把持することが本質を把持することなのである。この本質の認識こそが直感であるとレヴィナスは述べる。
この本質の直感は明晰かつ判明な仕方で明証的に与えられる対象の「ヴィジョン」ともなる。なお、対象は明晰かつ判明な仕方で見られるだけではなく、生身のものとして与えられる。どんな認識も意識を前にした対象の現前のうちに存して、その対象の真なる言明は直感において見られた対象に由来するのである。言い換えると、直感こそが真なる認識をすることができ、こうして、現象学では、真理はその対象に依存していると確証できる。また、どんな思考も、本質からして思考の対象へと方向づけられているのであって、かかる対象のみが思考の数々の志向の真理を基礎づけ得るのである。認識の源泉は直感と解された広義の経験である、これによって経験的・感性的諸事実とは別に、諸本質、諸範疇をみることができるとレヴィナスは述べている。簡単に言えば、現象学では対象を現前として内観に現れる現象そのものを表わすものであり、直感によってその本質を把握できるものなのである。
なお、本論文の最初で、現象学は形相学であるかぎり、レヴィナスは現象学と関わるため注意が必要と述べている。形相とはアリストテレスが本質を指した言葉で質量と二元論を成している。こうしてレヴィナスは形相的真理と個別的真理との連関、領域的存在論について述べる。領域とは高度な一般性を有した本質を呼ぶ言葉である。フッサール的な意味での現象学の機能のひとつは、経験的心理学を合理化する形相的な学なのである。なお、対になる言葉は形式的存在論である。この形式的存在論は対象の形式一般という領域に関する形相的な学に従っている。なお、領域的存在論は、経験論にいう経験から独立している。
従って領域的存在論は、形式的存在論の諸法則に即して形式的に結論づけるような分析的認識とは違って、先見的な総合認識と呼ぶことのできるものなのである。この辺は分かりにくいが、言わば、実体や個体が全体の部分として存在する、全体が具現者との考え方である。この領域的形相論が領域的な存在論へと確立されていくとレヴィナスは述べている。現象学の唱える存在論を私は知らないが、存在論が基調をなすレヴィナスだからこそ、こう強調しているのかもしれない。なお、調べると、ハイデッカーは形式的存在論を自明のものとすることで、フッサールの考え方を裏切っているとも書かれている。
フッサール的な意味での現象学への移行として、対象が意識に対して与えられ、また意識に対して実在するという悪しき解釈とそこから帰結される懐疑論を乗り越えるために、対象が意識に与えられるその様式や対象の客体性の意味それ自体が直感的探求の対象とならなければならないのだとレヴィナスは述べる。われわれの認識は与えられた諸事物に向けられていて、われわれの認識の志向は与えられた諸事物をこそ把持することにあるのである。
こうして第二部 「根本的な現象学的考察」と移り、意識の本質としての志向性を述べる。また意識と知覚世界を、内在的知覚と超越的知覚について述べる。やっと超越的という言葉が登場する。諸事物の世界は他の世界の像や象徴の性質を有したものとして与えられるのではなく、つねに「それ自体」として知覚の中で与えられるままの世界こそが、われわれの認識の客体である。知覚や思い出や想像力などの客体の反省的能作における超越とは異なって、意識の流れに属するのが本質的に不可能である空間的な客体を超越的な客体と呼ぶのである。超越と超越的との言葉の使い方に注意。超越的な客体は非十全な仕方で与えられる。一度の能作で把持することができず、一連の視線が必要であり、この連続的な系列は本質的に無限系列である。言わば、超越的客体に関しての実在的な意味は、知覚の客体になりうるという事態に汲み尽くされている。なお、世界の実在の措定がつねに懐疑を容れうるのに対して、意識の措定は一切の懐疑に抵抗する。意識に係わる真理はいずれも絶対的なのである。
第三部 「純粋現象学の方法の諸問題」では、現象学は純粋意識にまつわる事実の学ではなく、純粋意識の本質を研究しようとするものであることを記述している。つまり、意識の本質的な構造を記述することを本義としている。意識の諸状態は自我に寄って体験されるが、それらが客体させるのは反省によってである。反省とは自我が自己自身を対象化することであり、時間の中を流れる意識の変容を通じて。変容されざる意識の形式を把持するのである。ただ、意識が諸活動の出発点における「自我」に属する限り、感覚的ごとき物質的な要素(フッサールは「ヒューレー的」な要素と呼ぶ)が、時間を充実させる意識と自我との関連、人格としての自我の問題、この志向的な連関の中で相互浸透し合う時間との構成などの問題が指し示されるが、我々の関心は客体と係わるかぎりでの意識、志向性としての意識、結局客体それ自体への関係こそが始原的な現象であることに向けられている。客体は欲望、歓喜それ自体での志向となるが、それらの志向の中で客体は異なる仕方で与えられる。志向と客体との連関が異なることが、客体を所有する独特な様態を通じて客体性の意味を研究する、と同時に客体が必然的な構造を形作る諸志向の複合体のなかに与えられる。超越的な客体の範疇のおのおのに関して、純粋な超越論的意識に対するそれらの構成という問いが発せられるのであるとレヴィナスは述べる。
つまり、問題は自己超越して客体に達する思考の各活動にとって必然的な構造を解明することなのである。ここでは客体の実在と超越は形而上学的な意味で前提とされていずに、それに先立ってこの実在と超越の意味が研究の対象となるのである。こうしてレヴィナスは意識の志向性に関するノエシスとノエマ、意識活動としての判断、理性と実在について語るのであるが長くなるので省略する。第四部 「理性と実在」 では、質量的な事象は本質的に絶対的な実在としての性格を有していない。現象学では実在の意味――実在を前提とした態度では一般的でありながら、空虚な実在の意味こそが探求の主たる対象となり、理性の現象学によって解明されるべきものと化すとレヴィナスは述べている。つまり、純粋意識にとっての質量的事象として包括することができるのである。同様に、人間、動物性、文化、社会といった領域での真理と実在の意味が現象学の対象となるが。現象学は問われている対象を実在するものとして、真実なるものとして構成する諸志向の解明に努める。なお、真理と存在の意味を真に研究しようとするのであれば、独我論とも言ってもよい現象学的な態度を乗り越えなければならない。これは対象世界を認識する主体の主観性を確信する現象学的な還元から、自我論的な還元と呼ぶ理性の現象学へと進まなければならないということである。自我論的現象学の探求のすべては、間―主観的現象学に毒さなければならないとレヴィナスは主張する。なお、間―主観性とは客観的な事実に基づいた主観、直感の事である。間―主観的意識に対する主対象の領域それぞれの構成をめぐる研究こそが、認識並びに存在の観点から見た諸対象の意味を我々に明かしてくれるのであると結びの文章でレヴィナスは述べている。
感想を短く記述した『フライブルク、フッサール、現象学』の内容については省略する。
『書評Ⅰ―「哲学と現象学誌』では、オイゲン・フィンクの「再現前化とイメージ――非現実性の現象学に寄せて」やヘルマン・。メルヒェンの「カントにおける構想力」の論文を読み下し、引用しながら、現象学の流れを三つの時代に分けて記述する。第一期はフッサールの初期の仕事に対応して、直感によって繊細かつ緻密な現象学の記述ができる時代である。第二期は理念的ならびに現実世界の根拠を解明すべく、超越路的構成に係わる諸問題が提起された。超越的観念論として諸理念が流れを構成する超越論的意識の中に押し込まれた時代である。なお、ここで超越論的というのは対象が意識を超えて超越的に存在しているいるのに対して、超越論的意識とはこのありかたが意識それ自身にどのように構成されるかという問題に関わるありかたである。第三期はマルティン・ハイデガーが実存的現象学を創始した時代である。
フィンク氏はフッサール主義で世界に属するに先立って、世界を全面的に構成するような、世界から独立した超越論意識を持つ。つまり有限な実存にしてからがすでに、人間的なものと化して世界のなかに自分を見出すに至った超越論的意識の産物であると言い換えることができる。と同時に、ハイデガーの影響も受けて、われわれは有限で死すべき者であるという条件にどうしようもなく繋ぎ止められているのである。この哲学的な開放を成就されるのは、フッサールのいう現象学的還元において、人間の条件を離れて超越論的実存にいたるのであるとレヴィナスは述べている。また、メルヒェンにとっては有限な主体に対して個別的存在が現れうる、そのような存在の場において、構想力は認識の条件であり、知覚の原料であり、志向性の役割を担っているとも言えると述べている。
最後にレヴィナスはフッサールの哲学的な態度について言及する。哲学の本義は、絶対的確信の領野たる「超越論的生」へと回帰して、諸額における一切の懐疑主義、一切の危機を克服することにある。だから、現象学的還元を実行することを欲せず、人間的なもののなかに留まって、超越論なものに達することのなき、どんな実存哲学とも袂を分かつのである。この言い方はとても味わい深いと共に、哲学的問題が常に残存して取り払うことができないと言うことでもある。
なお、捕捉ながら、私が調べた結果、超越論的という言葉はカントを中心にして始まっている。カントによれば、感覚を内容に持ち、なおかつ経験に先行する所定の形式(時間、空間、及びカテゴリー〈思考の形式〉に沿って構成されたもの(現象)だけが、経験の対象になることができる。これに対し、この現象以外のもの(物自体)に関する理論的認識は成り立たない。このようにカントにおいては、対象の経験を成立させ、かつ理論的認識の限界をも決めているこの一連のありかたが「超越論的」と呼ばれている。一方、この限界を超えるもののありかたは「超越的」と呼ばれる。ここから理論的認識の限界を捕らえようとするカントの批判哲学は、超越的観念論とも呼ばれる。この「超越的」、「超越論的」の概念はフッサールにも受け継がれていて、現象学の場合、対象がわれわれの意識を超えて外部に存在しているようなありかたが「超越的」と呼ばれ、そのありかたが意識それ自身にどのように構成されるかという問題に関わるありかたが「超越論的」と呼ばれる。っこの調べた結果は、これまでの記述と齟齬は無いと思われる。
長く書きすぎたので、「逃走論」という短論文についてのみ少し記述して終わりとしたい。「逃走論」がジル・ドゥルーズの逃走線との関連を知りたかったためである。ただ、ル・ドゥルーズの逃走線とは関係がない。存在の制限を超越せんとする要求にしたがった逃走について記述されているのである。おれにしても「超越論的」とはまだまだ奥がありそうに思われる。合田正人の「解説」において記述している「異形の超越的観念論」についても紹介は省略したい。
以上
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