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自分の人生を生きるということ

自分のことを「ダメだ」「嫌いだ」と思ったことがあまりない。というか、大人になってからは全然ないかもしれない。「失敗したぁ!」と思うことはあっても、だから「自分はダメだ」とは思わない。開き直りでもなんでもないのだけれど、ただ「これが私だもの」とフラットに感じている。もちろん、失敗したら一瞬は自己嫌悪に陥るが、失敗した自分もまるごと受け入れて、数秒したら、次にうまくいくにはどうすればいいかを考えている。そして、何かあっても基本的に人のせいにはしない。おそらく何か出来事が起こった際の原因は自分にあることがほとんどだし、そこに気付けるかどうかが成長につながると思っている。

と、達観したようなことを言っている私だが、生まれたときからこうだったわけではない。家庭環境の変化などもあったのだが、12歳頃からしばらくは超がつくネガティブ人間で、人相も悪く、デブデブに太っていた(今も太っているけど、何かが違う)。そんな私の価値観や、狭い視野、凝り固まった四角四面な世界をぶち破るターニングポイントが中学生のときに訪れる。

学校帰り、人も車も多い五差路で、親友のNが突然言った。「ねぇ、ナマコはどうしていつも、でも、だって、どうせって言うの? だってどうせナマコは、でもどうせナマコはって言うけど、どこがそんなに嫌いなの?」。14歳の私に、衝撃が走った。Nは不思議そうな顔をして私を見ている。「ねぇ、自分の嫌いなところ、言ってみてよ」と、目をクリクリさせながらNが言った。今となっては何と言ったか覚えていないが、ぼそぼそと自分の嫌いなところを挙げてみた。ところが、4つほど述べたところで止まってしまった。すると、Nは、「私、ナマコのいいところや好きなところ、もーっといっぱい言えるよ」と、指を折りながら彼女が思う私のいいところを挙げ始めた。すぐに両手が埋まっていた。目からウロコだった。私、ダメじゃないじゃん。私、すごいじゃん。

それ以来、少しずつ自分の中で何かが変わっていった。「でも、だって、どうせ」という口癖は、どんどん減っていった。真っ暗闇の中に、見えなかった扉が浮かんで見え、それが開き始めて光が差し込んだような感じだった。思春期だったこともあり、家では眉間にしわを寄せていて、親や家族には反抗的だったが、学校へ行くのは少し楽しくなっていた。今思えば、親以外の人に、自分という人間をまるっと認めてもらえた、そして、自分自身をまるごと受け入れ、認めることができた瞬間があの五差路だったのだと思う。自己受容、自己肯定のボタンを押した瞬間である。今でもNには感謝しかない。たった、14歳でセラピスト並みのことをやってのけたあの日のNは、私のハイヤーセルフか天使か宇宙人でも乗り移っていたのだろうか(笑)。

あれから30年以上経つ。途中、大学4年のとき、自分ととことん向き合う自分の棚卸作業をしたこともあり、私の自分好きはより揺るぎないものになった。相変わらずできないこともいっぱいあるし、失敗も間違いもする。たまに人への不平不満を言うことだってある。だけど、私ってなんてチャーミングなのだろうと思う。他人にどう思われているかは知ったこっちゃないのだ。自分の人生を生きるためには、まず、自分にはなまるを付けてあげないと始まらない。主人公を愛さずして、幸せな人生のシナリオは成立しない。

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