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【読書記録】百花

忘れることこそ、人間の本質なのかもしれない。記憶を失っていく人と、記憶の紐をほどいていく人。蓋をしてなかったように過ごしてきた空白の時間が、距離が、少しずつ埋められていく。

今回は、川村元気さんの、"百花"です。

読む前に

菅田将暉さんが映画をされるということで、観なければ、その前に読まなければ、と思って図書館で借りて読んだ。
本屋さんに並んでいる印象的な黄色の表紙は、今現在、私の記憶のどこかにきちんと収まっていて、今のところいつでも思い出すことが出来る。

初めて読んで

川村元気さんの作品を読むと、ストーリーとして完成された物語のなかに、こちらが日々甘んじて享受している当たり前を問うような、哲学のようなものを感じ取ってしまう。
自分の生活の中に当たり前にあるものは、本当に当たり前なのか。世の中で幸せだとされていることは、本当に幸せなのか。人生の中で必須だと思っているものは、本当に必須なのか。

記憶というもの

近年、色んなデータが記録され続けている。ケータイ、パソコンといった機器自体のメモリはもちろん、もはや物理的にはどこに存在しているのか分からないクラウドにも、たくさんの事柄が記録され、記憶されている。それらは、学問の進歩にも、人々の暮らしの便利さにも、なくてはならないものになっている。

そんな中で生活していると、私はふと怖くなることがある。記憶を外部に委託しすぎてしまっているような感覚に襲われて。
友人の誕生日、家族の電話番号、自分がいつどこで何をしていたか。時には自分の住所すら、どこかに記録されたものを頼りにしている自分がいる。”覚えていなくても大丈夫なこと” が増えすぎていて、本当は覚えておかなければいけないことすら、覚えていられなくなっているのではないかと思う。

そもそも、私たちの記憶というものは、実体がない。
覚えている、ということがどういうことなのか、どうやって起こっているのか、想像することが出来ない。
脳の中で何かしら電気信号のやり取りがされていることや、海馬というところが記憶をつかさどっていることなどは聞いたことがあるけれど、つまるところ何が起こっているのかは、分からない。電気信号が伝わったからといって、それがどうして ”何かを思い出す” ことになっているのかを理解することが出来ない。

自分が、何を記憶して、何を忘れて、何を思い出せるのか。自分のコントロールの外にあることが多すぎる。頑張って勉強したのに試験本番で度忘れしてしまう英単語、いつの間にか口ずさめるようになったCMソング、忘れたいのに忘れられない恥ずかしい思い出。
覚えていることすら自覚していなかった小学校の校庭の匂いが、ある時突然よみがえってくることもある。

記憶を失うこと

認知症というものが存在しているけれど、記憶を失い続けていることについて言えば、みな同じなのではないだろうか。その対象、度合いに違いがあるだけで (もちろん医学的に言えば認知症の人とそうでない人の間にはいろんなところで有意差はあるはずで、だからこそ認知症という名前があるのですが)。

映画の中で出てくる、岡山天音さんの “俺たちだって大したこと覚えてないじゃないですか” というセリフがすごく印象に残っている。軽いように聞こえる言い方が、余計に私の中に引っかかって、いろいろと思いを巡らせるきっかけになった。

記憶が失われてゆく時って、脳の中の記憶が消えていくのだろうか。それとも記憶のところへアクセスする回路がうまく動かなくなるのだろうか。
覚えていないと思っていたことを何かの拍子に思い出せることもあるから、アクセスルートが閉ざされているのかもしれない。けれど逆に、どんなに人の話を聞いて当初の写真を見ても思い出せないことだってあるから、記憶自体が保持されていないことも、それはそれであるのかな。そもそも脳の中は、記憶場所とそうでない場所に分けられているわけではなく、全体の信号のやりとりなのかも、と思ったり。

認知症って、失っていく過程が、本人も、周りも、一番怖いのではないかと思う。
いつもと変わらないように会話していた、一瞬のちに、突然通じなくなる会話。これまで普通に共有してきた想い出を、突然共有できなくなる恐怖。誰にでも起きうることだからこそ、他人事とは思えない。何かしらの後遺症で、という場合もある。自分の親が、兄弟が、もしくは自分が。身近にそういう事象を抱えている人は、見えていないだけで結構いるのかもしれない。

映画について

まだゴリゴリに上映期間中なのであまり詳しくは書きませんが。
息子と母の間にある微妙な距離。記憶の有無で、精神の在り方で、人の表情や動作はこんなにも変わるのだというリアルな実感。それを身近に味わう混乱と恐怖。
執拗に繰り返されるピアノのフレーズ。雨の音、電車の音。無音。映像と音声の使い方がすごく素敵で。会話ではないところで伝わってくるものもたくさんあって。
そういうのは、こちらが第三者である映画という媒体だからこその感覚である。基本は本で読んで、誰かの中に入ってしまう方が好きだけれど、この作品に関して言えば、映画の方が好きかもしれない。

(それから私、菅田将暉さん、好きなのです。仮面ライダーW時代から。当時中学生だった私が、初めて俳優さんとして好きになった俳優さんなのです。テレビの中にいる人たち、というぼんやりした枠組みを改め、彼らはそれぞれ生きた人間であり今日もどこかで暮らしている、ということに気がつくきっかけになった人なのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本当に)

今回はここまでです。記憶というものについて考えたことがいろいろあって、うまくまとめきれず長くなりそうなので、いったん、ここで終わります。また明日、余裕があれば書こうと思います。
台風、怖いです。皆様もお気をつけてお過ごしください。


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