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おじいちゃんとの物語

おじいちゃんは寡黙な人だった。

補聴器をつけていたので耳がよく聞こえなかったのだろう、と今大人になってようやくわかる。

父がよく言っていた。
「おじいちゃんは厳しくて、とてもこわい人だった」と。

父の転勤で日本中を転々とする幼少期に夏休みとたまの冬休み、その地から遠い鹿児島に必ず帰っていたことから、幼いながらも、そこはとても大切な場所なのだと知っていた。

小学校に入ってからは通知表を持っていかねばならず、兄とお仏壇の前で正座し親族へのご挨拶を済ませると、通知表がお仏壇にしまわれた。
子供心にその強張った空気がこわくてたまらず、終業式の日には毎回ビクビクしていた。

そして、そんな時もおじいちゃんはただひたすらに寡黙だった。

そんなおじいちゃんは大好きな芋焼酎を飲んで酔っぱらった夜だけ笑顔で豪快に話す。そしていつも私にこう言った。

「じいちゃんはお前が大好きだ。だから、じいちゃんと握手をせんか?」

おじいちゃんの手はゴツゴツしていて大きく、どこかぶっきらぼうで、こわかった。恐る恐る手を出すと、ぎゅうーっとすごい力で握手してくる。強い力には温かさがあることもどこかでわかっていた。

不器用なおじいちゃんの愛情表現。
でも確かにそこにあった想い。
私もおじいちゃんが大好きだった。
私が帰る夜は決まってお寿司を遠い町まで買いに行ってくれていた。
私もおじいちゃんの好きなコッペパンを買って行った。(余談だが、後にミスドのフレンチクルーラーをお土産に買って行くと気に入ってくれたらしく、数日後に1時間かけて原付バイクで買いに行ったらしいが購入システムが分からず、何も買わずに帰ってきたらしい)

高校生になると私も本格的に梅の手伝いを始めた。寡黙なおじいちゃんとひたすらに梅を拾い、ひたすらに選別をした。歩く速度よりもゆっくり動くトップカーをおじいちゃんが運転し、その荷台に私が乗る。軽トラックの運転席におじいちゃん、その助手席に私。ひたすらに私が話すだけの一方通行な会話。けれど、私はおじいちゃんと仲良しなのだと思っていた。その「空気感」が好きだった。

握手の儀式は私が大人になっても母親になっても変わらず、おじいちゃんの中での私は、いくつになっても「孫の私」であり、大切に想ってくれることになんら変わりはないのだと有り難く思ったものだ。

そう、変わらないもの。

とこさんち。の梅はおじいちゃんがさつま町で町おこしのために和歌山に行き、栽培を教わり、苗木を分けていただいたところから始まった。30年以上もの間、梅の木は変わらずそこにあり、育て方も手作業も、おじいちゃんがいたときのままだ。そこには、梅でみんなを幸せにしようと願ったおじいちゃんの思いが込められている。

おじいちゃんが亡き今も、梅は毎年大きな実をつけ、生きようとしている。

そして、おじいちゃんの大切な思い出と、梅園を、私は守りたい。おじいちゃんが守ってきたものを私が守っていきたい。近年、後継者問題により、伐採されていく梅の木をさつま町の至る所で目にするようになった。梅をここで絶やすわけにいかない。

だから、今声をあげる。ひとりではどうにもできないことがわかっているから。おじいちゃんの梅が、どうか多くの方に知ってもらえますように。そうして人と繋がって、「美味しい」が広がって笑顔が増えていきますように。

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