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あきちゃんのこと 精神病院の人々

前にも書いたけれど、精神科病棟に入院していると、ほかの患者がどんな疾患を抱えているのかというのは大体わかるようになる
カミングアウトする人もいるし、そういうのがなくてもしばらく病棟で一緒に暮らしているうちに察せられる
まさに「一緒に暮らしている」という感じだからね、閉鎖病棟というものは

割合としてはまぁたいていはうつ病関係が多いんだけど
もちろん、うつだと思っていたらものすごくテンションをぶちあげているのを見かけて「あの人躁鬱だったのか」なんて気づくこともあるし、自分の病室に籠っりきりで全然みんながいるところに出てこない人なんかは良くわからない
僕としては別に病名が知りたいんじゃなくて、自分に害や悪い影響があるような人とは関わらないようにしたいからよく観察してる、端的に何の病気かわかると接しやすいというだけの話だ


僕は時々「あきちゃん」のことを思い出す

僕がはじめて入院した精神病院の同じ病棟の患者さんのひとりに、あきちゃんというおじさんがいた
なんであきちゃんというのかは忘れてしまった
多分本名が、あきお、とか、あきら、とかそういう感じだからそう呼ばれているんだと思う
とにかくみんな彼のことを「あきちゃん」と呼んでいた
だから僕もそれに倣って「あきちゃん」と呼んだ

あきちゃんはたぶん60代半ばくらいだったんじゃないかな
そのあたりのことはきっと教えてもらったんだろうけど、今となっては忘れてしまった
とにかくあきちゃんはおじさんとおじいちゃんの間くらいの年齢で、見た目は市議会議員とか区議会議員みたいな顔をしている
なんというか、亀井静香を貧相にしたような感じだ

あきちゃんはたいてい一日中パジャマで過ごす
病棟内は別にどんな格好をしていてもいいのだけれど、一日中パジャマを着ているのはおっさん連中が多い
若い子は若い子らしい私服を着ているし、おばさんたちはさすがに昼間にパジャマというのは恥ずかしいらしい
この辺りは精神科以外の入院とはちょっと違うかもね
内科とか外科なんかの入院だとみんなパジャマとか浴衣とか着てるもんな
とにかく、あきちゃんは病棟内では少数派閥の一日中パジャマ派に属していた
パジャマはいつも水色と決まっている
そして、パジャマの上にはいつも袢纏(はんてん)を着ていた
袢纏ってわかるかな?
ほら、温泉旅館なんかに泊まりに行くと浴衣があって、その浴衣の上に着るやつが備え付けてあるじゃない?あんな感じのやつ
あとはまぁ眼鏡をかけてるんだ
それでたいてい、新聞を読むかテレビを見るか詰将棋をしている

水色のパジャマの上に袢纏を着た貧相な亀井静香みたいな60代男性
それがあきちゃん
想像できますか?

あきちゃんは僕が病棟に入った時に一番最初に声をかけてくれた心優しいおじさんだ

僕はもともとうつ病の薬を飲んだいたんだけれど、ちょっと事情があって、ある日首つり自殺をしたんだよね
ところがロープが僕の体重を支えるにはいささか心もとない太さだったせいか、僕は意識を失ったもののその後ロープが切れて床に落下して頭をしたたかに打ちつけたらしい
それで、結局頭を数針縫った状態で強制入院させられるというファンタスティックな精神科入院デビューを果たしている
だから僕の頭の傷口には大きな絆創膏みたいなものが貼られていて、それが外れないように、その上からネット状の包帯がぐるっとかぶせられていた

そんな状態で初めてみなさんがいるホールというかリビングみたいなところにとぼとぼと歩いて行ったんだ
そこにある喫煙所でタバコが吸いたくて

精神科病棟の外科的な傷といえばリストカット痕が王道なのであって、頭に包帯を巻いているような奇妙な患者はなかなかいない
だからその場にいた人たちは遠くから僕のことを見つめたり、一言二言仲間どうしで言葉を交わしたりするばかりで、僕に近寄って来る人はいなかった

僕がおろおろとしていると、目の前にパジャマの上に袢纏という奇妙な格好をしたおじさんがやってきて僕に話しかけた

あきちゃんである

「おいお兄ちゃん、頭に高級メロンみたいなネットかぶってどうしたんだ?なにか困りごとか?」
「タバコが吸いたくて」僕がそう言うと彼は喫煙室のほうを指さして「あそこだよ、ライターは中に備え付けになってる」と教えてくれた
あきちゃんはすぐにテーブルに戻って読みかけの新聞を再び読みだした

それが僕とあきちゃんの初めての会話だ

その日の夜、また喫煙室でタバコを吸っているとあきちゃんがやってきて、隣で一口タバコを吸うと
「なぁお兄ちゃんさ、何があったか知らないけど、頭のケガ早く治るといいな、元気出せよ」
と言ってくれた
「お兄ちゃん」というのは多分僕がその当時はまだ20代だったからだ

あきちゃんは入院患者みんなに人気がある
誰にでも優しいからだ
困っている人や苦しそうにしている人がいたら声をかけて看護師さんにつないでくれたりする
若い子にも好かれている
就寝時間後に喫煙室にたむろしているのはたいてい若い子なんだけど、時々あきちゃんもそこにやって来ては「おいお前らさっさと寝ろよな」なんて言いながら自分もぷかぷかタバコを吸ってはくだらない話に付き合ってくれる
いい人なんだな


あきちゃんという人は不思議な人だ
というのも、なぜ入院しているのか全然わからないのだ
いつもニコニコして明るくてマイペース
落ち込んでいるところを見たことがないし、いつもご飯をたくさん食べる
だから「うつ病」というわけでもないんじゃないかなと思ってしまう
というかそもそも精神疾患を患っているという感じがない
毎日新聞を何時間もかけて読んだりどう考えてもつまらないテレビをじっと眺めていたりするところがあるから、もしかすると認知症なのかななんて考えたこともあるけれど、この病院では認知症の人は病棟が別になっているらしいから多分違う

気になって僕はあきちゃんに時々尋ねたんだ、あきちゃんって何の病気で入院してるのって
そのたびにあきちゃんは
「なんか気持ちが暗いんだよなぁ」とか「元気が出ない病気」なんてニコニコしながら言ってごまかしてしまう

でもまぁいい
別にそれほど知りたいわけじゃないし、何の病気であろうとあきちゃんは優しいしいい人だ
毎朝必ず長い時間トイレを占拠するうえに2回に1回はトイレのカギをかけ忘れるから、僕がトイレに入ろうとするとしょっちゅうあきちゃんがうんこを踏ん張っているところを見なくてはならないことくらいしか不満はない


僕が入院して以来はじめて、あきちゃんが外泊をするという

外泊というのは、閉鎖病棟の入院患者が医師の承認を得て自宅に帰って宿泊することだ
誰にでも許されるわけではなくて、ある程度状態が安定した人が何らかの用事があって外出するということもあるけれど、どちらかといえば、退院に向けた練習という色合いが強い
外界から遮断されて守られた環境である病棟から外の社会にいきなり出ていくとなかなかうまくいかないことがあるから外の世界に慣れるために練習するんだ(実際のところ、退院しても再入院という形で戻ってきてしまう人も結構いる、「出戻り」なんて呼んだりする)

どんな理由かはわからないけど、あきちゃんが外泊するらしい
僕はその時になって初めて「そうか、あきちゃんには家族がいるのか」ということに思い至った
それくらい「病棟の主」みたいな感じがする人なんだな

外泊をするときは、「行ってきます」といって出て行って、その場にいる人は「行ってらっしゃい」とか「頑張ってね」とか「楽しんでね」なんて言うんだけれど、僕らがあきちゃんに「外泊楽しんできてね」というと彼は「俺は別に外泊なんていいんだけどさぁ…」とかなんとかもごもごと言っていた
あんまり嬉しそうじゃなかったな、そう思った


残念ながら、あきちゃんは「ただいま」と言って自分の足で元気に歩いて帰っては来なかった
そのかわりに、救急車と警官とあとは何やらわからない大人と一緒に帰ってきたらしい(僕はその場を見ていない)

後で聞いた話なのだが、あきちゃんの診断名は「アルコール依存症」という

僕らが送り出した日の晩、あきちゃんは自宅に帰ると、あらかじめ入院前に密かに庭の土の中に埋めておいた一升瓶を掘り起こして浴びるほど酒を飲み、隣家の屋根の上に登って大騒ぎをして警察を呼ばれたらしい

そんな話をぼそりぼそりと、あきちゃんは喫煙室で教えてくれた
正気を取り戻して数日後の話である(もちろん、本人だって覚えていないだろうから家族や警察から聞いた話なんだろうとは思うけれど)

そんな話を聞いて、僕はなんとも言えないもの悲しい気持ちになった
人生ってうまくいかないものだ
当たり前だけれど、なんの問題もない人は精神科病棟に入院したりはしない
要するにそういうことだ


精神科病棟の入院患者同士の関係性というのはなかなか不思議なものだ
数か月寝食を共にして同じ場所で同じ時間を過ごす
中には家族にも言えないようなことが相談できるくらい仲が良くなる人もいる
ある日誰かが「お先に!お世話になったね、連絡するね」なんて言って退院していく
本当に連絡が来ることもあれば、すぐに音信不通になることもある
またある日、おどおどと新しい患者が入院してくる

病院を出ても長く付き合いがあるというのは割と稀なことだ(入退院を繰り返す人たちは結構付き合いが長くなることが多いみたいだけれど)
病気が良くなって生活環境が変われば、付き合う人間関係も変わるものだ
いつまでも自分の最悪の時期みたいな時の知り合いと付き合いたいとは思わない人がいるのも、まぁ理解はできる

僕はあきちゃんにとてもお世話になったし、彼のことが大好きだったけれど、先に僕がその病院を退院してしまうと、それっきり一度も彼とは会ったことがない

一度だけ、同じ時期に入院していた女の子が「あきちゃんと会ったよ!スポーツジムに通ってるんだって!!」と教えてくれたことがある
あきちゃんがスポーツジム?
悪い冗談みたいだ

あれから20年近くたつ
あきちゃんが生きていれば80歳を超えていることになる
生きているなら、穏やかな日々を送っていてくれたらいいと思う
お酒は飲まないでほしいな
死んでいるなら、天国で浴びるほど酒を飲んでいるんだろうと思う

いずれにせよ、幸福であってほしい
もう二度と会うことのないであろうあきちゃんのことが、僕はとても好きだった


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