良い春になりますよう
今日は本当に暖かかったです。暖かいを通り越してもはや初夏でした。ドライヤーで髪を乾かしたときに汗ばむ感じとか、そのあと窓の開いた居間に風がサーっと吹き抜けていく感じとか、完全に夏の夕暮れでした。
ああ、辛い。
春が来たのは嬉しいけれど、それはすなわち、夏が着々と近づいているということでもあるのです。何を隠そう、私は夏という季節がハイパー苦手なので、毎年春の訪れを感じると、嬉しいような悲しいような、とても複雑な気持ちになります。
さて、日中は、使用期限が今日までのスタバのドリンクチケット(もらいもの)を引き換えにいくなどしました。年に2、3回しかスタバに行かない私にとって、スタバでドリンクを頼むというのは一大イベントです。色々カスタムをしてみたい好奇心と、あの呪文を最後まで平常心で唱えられる気がしない不安とが戦った結果、iPhoneのメモに「チョコチップ追加、パウダー多め」などとカスタムの内容を全て書き連ね、店員さんに「これでお願いします」と画面を見せるというやり方に落ち着きました。なお、メモの文字は大きめ、かつ太字にしております。いただいたのは、抹茶のフラペチーノでした。
では、3月も終わりということで、近況など書き綴りたいと思います。
モロッコに行きました
3月に1週間ほどモロッコに行ってきました。
モロッコにいくことになった経緯は端折りますが、成り行きで、という言葉が一番しっくりきます。運命ってやつかもしれません。ちなみに、海外は2回目です。1回目はベトナム。2回目にモロッコをチョイスする人って、多分、そんなにいない。
モロッコ、よかったなあ。死ぬまでにもう一回行きたいと思うくらいにはよかったです。なんなら住んでもいいかもとか思ってしまいました。ベトナムに行った時はそんな感情湧かなかったのに。
特によかったのは砂漠です。何もない、本当にどこまでも砂だけの大地。赤茶色の砂と、青い空とのコントラスト。頭の中でイメージしていた砂漠が、本当にそのまんま目の前に広がっていることに大きな感動を覚えました。朝には裸足で走り回り(砂のきめが細かいので素足で歩くととっても気持ちがいい)、夜には寝っ転がって星空を仰いだりしました。
よくいるじゃないですか。若いうちに海外に行け、みたいなことを言う人。
あながち間違いじゃないな、と今回の旅を通じて思いました。
なんだろう、自分にとっての当たり前が壊されるというか、それによって、人生における選択肢が増えるというか。「世界には色々な人がいて色々な生き方がある」ということを、肌身で感じられるのが、海外に行くことの大きな意義だと感じました。
実際、私はこれまで、海外で生活するとか一切考えたことなかったんですよね。海外旅行が趣味だと言う人に対しても「へえ〜お金持ちなんだなあ」くらいの感想しか抱かなかったし、そもそも海外に行きたい欲もそこまでなかった。国内旅行で十分だわって思ってた。好奇心より恐怖の方が大きかった。
それが、たった一度の海外旅行で「一年に数ヶ月くらい住んでもいいかも」とか、「世界にはもっと住みたいと思える国がもしかしたらあるのかも」とか思うようになっちゃったんです。海外志向が高まりました。海外行くために仕事頑張ってお金貯めようとか考えちゃってるし。この私が。信じられん。
今行ってみたいなと思っているのは、スペイン(巡礼がしたい)、南アフリカ、モンゴル、ニュージーランドあたりです。大自然に触れたい!!野生を感じたい!!
モロッコでの移動中に見た、どこまでも続く緑の丘、地平線、遠くで草を喰む羊たちの群れ。一つ一つの風景が目に焼き付いています。私は自然が好きなんだということを自覚させられました。
次飛行機に乗れるのはいつになるかわかりませんけれども、一年に一度くらいの頻度で、今回のモロッコ旅行のように、大きく心揺さぶる刺激的な旅を経験したいと強く思います。
自分の幸せしか考えられない自分
高校時代の友達が、5年ぶりに恋をしたと言います。
いつも何もかも理屈で考える人が「なぜだかはっきりとはわからないが、この人のことを幸せにしたいと思った」とまっすぐに言いました。ああ、これは本物だ。本気なんだ。とても素敵な話だと思いました。
その話を聞いて、ふと思いました。
友達は「この人のことを幸せにしたいと思った」と言ったけれど、かつて私に「誰かを幸せにしたい」と思ったことがあっただろうか、と。
振り返れば私は、いつも自分が幸せになることしか考えていなかった気がします。
誰かに「いいことがあってほしい」「この子は幸せになってほしい」と思うことはあっても、結局は自分が一番幸せでいたい。「この子は幸せになってほしい」という願いさえも、自分は人の幸せを願えるいい人間なのだと思いたいだけで、心からの願望ではない気がしてきました。
しかも最近、私は見返りを求める人間なんだなということを強く意識する出来事がいくつもありました。「幸せにしたい」と思って起こした行動も、結局与えただけの幸せが自分に戻って来ないと嫌だなと思ってしまうのです。
食べ物を半分こするときは、きっちり半分にしないと気が済まないし、大きい方、多い方をほしいと思ってしまう。一口あげたら、自分も同じ分量の一口がほしいし、奢るとか奢られるとか面倒くさい。自分が食べた分だけを払いたい。人が食べた分は払いたくない。誕生日プレゼントをあげたらお返しが欲しい。お土産をあげたらめいっぱい喜んで欲しい。
人に見返りを求めてしまうし、何事においても期待をしてしまう。
ああ、なんて醜いんでしょう。本当に私はちっぽけな人間です。
自分本位であることは、集団において自分の意見を主張できたり、周りに流されにくかったり、きっといいこともあるのだと思います。
でももう私は、「自分」意識の強すぎる自分に、いいかげん嫌気がさしてきました。
俗にいう「GIVER」になりたい。見返りを求めず与えることができる人になりたい。
人の幸せを願い、人の幸せが自分の幸せであると感じられるようになりたい。
でもどうすればいいのかわからない。
母親は、「大人になれば不思議と人にあげたくなるものよ」と言っていましたが、年齢を重ねればそういう思考に辿り着けるものなのでしょうか。
それとも練習? 人に与えることは幸せなことなんだ、ということを、小さなことから実践して身をもって感じる体験を積めばいいのか。
「自分の幸せしか考えられない自分」というのが、今の私の最も大きな悩みの種となっていて、ここ最近は本当にそのことばかり考えています。
最近の私のやらかし
・人から頂いた、ちょっと高級なホワイトチョコをかばんの中でドロドロに溶かしてしまい、溶けたチョコがかばん内を侵略。あらゆる持ち物がほんのりホワイトチョコの香りに。
・買ってまだ3日目のズボンのボタンを引きちぎって破壊。
・カフェで「カフェラテのMで」といえばいいものを、なんでか「カフェラテのミディアムで」と無意識にかっこつけて言ってしまった。
・タイ料理屋の裏口から堂々と店に入ってしまい、「次からは入り口から入ってください」と注意される。他のお客さんに、入口ではないところから急に現れた変な人だと思われる。
・旅行先にもって行ったサンダルが二足とも左足。ただの荷物でしかない。
(全く同じ型番のサンダルを、古いものと新しいもの、2セットもっていた。おそらく昨年の夏の終わりに、古いものと新しいものそれぞれ箱にしまったつもりが、右2足と左2足に分けて収納してしまったせいで、片方の足のサンダルが2足揃うという、通常ありえないやらかしが発生してしまった)
・母親が週末のご褒美にとっておいたソーセージを無断で食べ尽くし、ブチギレられる。後日全く同じソーセージを成城石井で購入し弁償。とにかく謝罪。
社会人になります
いよいよ私も明日から社会人になります。
ここまで、長かったー。本当に。やっとか、という気持ちです。
自分の人生における、新たな章の幕開けという感じがします。明日から働くという実感はまだ湧かないけれども。
働くことが憂鬱だとか、嫌だなという感情はあまりありません。
というより、まだ働いていないから何も感じようがないっていうのはあります。
でも、平日の人のまばらな公園を散歩したり、部屋の日向でごろごろしながら本を読んだりすることはもうしばらくできなくなるのか、と思うと悲しい気持ちにはなります。平日の日中にフリータイムで一人カラオケとかもできないし。混んでいる土日にしか出かけられなくなるし。
まあできないことに目を向けても仕方がないし、別にこれらのことが一生できなくなるというわけではないのでね。平日に遊びたくて遊びたくてどうしようもなくなった時に、また考えればいいことです。
なんか、就職する前に、自分の就活について文章でまとめようとか、休学中のことも記録しておこうとか、大学時代を振り返ろうとか、もっと絵をたくさん描こうとか、映画見たり本読んだり、色々やりたいなと思っていたことはあったんです。
でもなんとなくやらないまんま、気づいたら3月が終わろうとしています。
まあ気が向かないことをやってもなあという感じだし。就職してからも、やりたいと思ったらやればいい話です。
ただ、これは書いておこうと思うことがあります。
私はなぜあの会社を入社先として選んだのか。
働く中で、目的を見失ったり、迷走したり、心がすり減ったりしてしまった時、ここに戻って今の自分を思い出せるように。
一度目の就活。
将来やりたいことも、自分ができることも、自分が何のために生きたいのかも、何もかもがわからなくなってしまい休学しました。
で、休学をきっかけに始めたことが二つ。
一つは無名人インタビューで、もう一つが地方での住み込みバイトです。どちらも、知らない人に話を聞けば/知らない土地に行けば、何かしらの気づきは得られるだろうと、理由は単純、だけれども藁にもすがる思いで始めたものでした。
それらをやっていくうちに、人は自分の魅力に自分で気がつくことが苦手なんだという気づきを得ました。
インタビューでは、どの人に話を聞いても必ずその人ならではの魅力があるのに「自分は面白い話はできないから」「私の話、記事になります?」などと謙遜する人がたくさんいたし、地方でも、外から来た人にとっては魅力的に感じても、その土地にずっと住んでいる人はその魅力に気がついていないということは往々にしてありました。
そういったことが起こるたびに、どの人も、どの土地も、こんなに魅力にあふれているのに、それが知られないのは勿体無いというもどかしさは大きくなり、いつしか「埋もれた魅力」を世の中に伝える仕事がしたい、伝えるために作る人になりたいという願望を抱くようになりました。
そんな思いを持ちながら就活をし、最終的にご縁があったのが明日からお世話になるマーケティングの会社です。
伝える手段(例えば文章とか、映像とか)に特にこだわりがない私にとって、幅広い手段を持っている点でその会社はマッチしていたし、企画・提案から制作・納品まで、一気通関で一つのチームで担当できるというのも、自分の仕事の成果を肌身を持って実感したい私にとって絶好の環境でした。
あと私服。オフィスカジュアルとかスーツとか着なくていい。これも私的にはかなり大事だった。
決して大きな会社ではないし、名前を言っても「どこ?」と言われるし、ボーナス無いし、家賃補助ももちろんないし、あとそれなりに忙しいらしい。
それでも、私は自分が大事にしたいことをここでなら守り続けることができる、と感じて、その会社を選択しました。自分の選択にはとても納得しているし、後悔はありません。
まあ今更後悔したって仕方がないんだけど。でも、ここでしばらくは頑張るんだという覚悟は決めました。
そう、覚悟を決めたんだもう。
明日からの日々、私は何が起こっても楽しもうなんて思っているけれど、いつ社会の厳しさを知って希望を打ち砕かれるかわからないし、生き生きと働いていてほしいと思うけれど、来週の今頃には「明日から仕事なんて憂鬱だ」と嘆いているかもしれないし。
何が起こるか、どうなるのか、本当に何もわからないけれど、でもあの苦しい就活と休学期間の積み重ねの末に「ここで頑張ろう」と決めたからには、へこたれずに頑張りたいと思う所存です。自分の選択を疑ったり、後悔したりすることはしないようにしたい。
とりあえず、4月の目標は健康でいること。心も体も。
私は過去を振り返ると、4月に心や体のバランスを崩しやすい傾向にあるので、しっかり寝て、ご飯をバランスよくしっかり食べて、健康に1ヶ月を終えることを目指したいと思います。
人生の新たな章が始まる感じがします。この感覚、久しぶりだな。
皆さまも、生活や環境が変わる人、変わらない人、さまざまだと思いますが、お互い良い春になるといいですね。
それでは、ぐっすり眠れることを祈って。
そろそろ寝ます。
恐れ入ります。