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嵐が丘 - エミリー・ブロンテ。


作品を読み終えて、感想を書こうかどうか迷うくらいの内容だった。

しかしせっかくだから書いておこう。大作には違いない。
「嵐が丘 - Wuthering Heights」というのはまさにこの物語を象徴する表題であり、言わずもがな美しい名訳だ。その名のごとく、最初から最後まで感情が吹き荒れ、ナウシカに出てくる風の谷のよりも強く、強く、風が音を立てて吹きつづける。


イギリスにそういう丘が多いのは今も変わらない。高くて1,000m級という低い山々は木で覆われておらず、ヒースや牧草が生い茂る。その黄緑色の丘に、羊の白い点がポツポツと浮かんでいるというお馴染みの風景だ。お分かりだろうが、木のない丘には風がその地面を一気に吹き抜ける。しかし依然としてイギリス人は、こういう丘で雨風に打たれて天候の不満を言いながらハイキングをするのが大好きな人種である。
ちなみにイギリスの森林面積は現在国土の13%、天然林でいうと2%しか残っていないらしい。16~17世紀には欧州諸国に材木を輸出さえしていた緑豊かだった英国が…。


さて、このものがたり、お屋敷の間借り人であるロックウッドが語り部として登場し幕が開ける。しかもそれがすぐに使用人のネリーに入れ替わり、時空間も飛んでさらに又聞きになったりとややこしい。そしてその語り部たちの言葉に特別な感性や魅力を感じるわけでもなく、次第に荒々しさを増す内容が作者の強迫観念のような執拗さによって最後まで貫かれている。

この作品が当初「酷評」を受けたというのにも少しだけ頷ける。しかし、この作風こそがこの作品の価値なのだと、あとの解説を読んで知ることになる。間もなくその展開にも慣れて、嵐が丘の人間模様に引き込まれていったことには違いない。

あらすじは本書カバーより引用しておく。

寒風吹きすさぶヨークシャーにそびえる〈嵐が丘〉の屋敷。その主人に拾われたヒースクリフは、屋敷の娘キャサリンに焦がれながら、若主人の虐待を耐え忍んできた。そんな彼にもたらされたキャサリンの結婚話。絶望に打ちひしがれて屋敷を去ったヒースクリフは、やがて膨大な富を築き、復讐に燃えて戻ってきた……。

「嵐が丘」新潮文庫・鴻巣友季子訳より


ここから半ばネタバレになるが、私がこの作品の中で唯一心を委ねることができたのは、魂が強く結ばれた男女の仲についての表現であった。それが世間の事情により引き裂かれたときの苦しみ。そして、しばらくの後に二人が生きて再会するシーンである。つまり、ヒースクリフとキャサリンの関係と別れ、再会である (キャサリンが死んでからは、ほぼほぼホラー。)

キャサリンが、自分の魂の叫びに反してエドガーのプロポーズを受けた際、使用人のネリーに、自分にとってのヒースクリフの存在についてこう打ち明けている。

ネリー、私はヒースクリフとひとつなのよ
ー あの子はどんな時でも、いつまでも、私の心の中にいる
ー そんなに楽しいものではないわよ。時には自分で自分が好きになれないのといっしょでね
ー だけど、まるで自分自身みたいなの。

こうした二人が引き離され、しばらくの間苦しんだ後に再会する場面では、ヒースクリフは、キャシーを抱き寄せ、狂しい愛撫を重ねずにはいられない。

「ああ、キャシー! 俺の命! こんなこと、どうして耐えられるだろう?」

キャサリンの死が近いことを悟ったヒースクリフが「絶望を隠そうともしない声音」を出して、キャサリンを抱き寄せる。鬼のようなヒースクリフも顔を相手の顔に埋めるようにして涙を流す。

これほど力強い抱擁がほかにあるだろうか。

男性が感情に突き動かされて女性を抱き寄せるときの力強さ。まるで自分の身体の中に女性を取り入れるかのように抱くのだ。

これがこの物語の中盤に現れ、次世代、さらに次の世代へとヒースクリフの復讐劇が続いていく…。


決して悪口ではないが、読み終えた感想から言うと、私のように感性が強すぎる人にはあまり向いていないのかもしれない。
実を言えば、ある時点、この本をソファーに寝転がって読んでいた私に向かって旦那がひどいことを言いはじめたことがあった。癇癪が止まらない。普段ならその場を去ろうというとこだが、そこで思わずムカついて手に持っていた「嵐が丘」を奴に投げつけてしまった。ついでにクッションも二個。相手は訴訟万歳なアメリカ人。やばいやばい、と思い、そそくさと拾ってソファーに戻りクッションもきれいに並べたのだが…。読者の心にも嵐が吹き荒れる。そういうこともある。この事件は私の「嵐が丘」の一部として記憶しておこう。

それにしてもこの物語には古典的な暴言が溢れている。例えば「ウジ虫がのたくれば」とか「このすれっからし」とか、人々が常に「!」で喋っていてやかましい。犬にも心を許さなかった時点で私はヒースクリフに希望を失ったが、実は、鴻巣友季子氏がどれほどキリスト教を理解し、そして皮肉好きな英国人の面白さを訳してくれているか分からないでもいる。ここは原文を読まずに印象を刻みつけるのは良くない気がしてきた。


さて気を取り直し。最後に、英国の女性作家といえば、やはりオースティンの作品と比較したくなるところである(「嵐が丘」の前にオースティンの「説得」を読んだ。)

オースティンの作品はあえて例えるなら、メリーゴーランドのようなきらびやかさがある。上質な音楽、黄金仕立ての馬の乗り物、そのたてがみが風に優雅に揺れるかのような美しさ。そこに上品なドレスをまとった女性たちが片身を乗り出しながら生き生きと笑っている。やがてその中に紛れている、整った顔立ちの賢くて心優しい主人公に紳士たちの視線がとまり、音楽も止まる。愛が生まれ、燃え上がり、そして残される恍惚感。あらゆる人間の弱さや醜さを知った上での笑いと上品さがある。

対して、ブロンテの作品は、パペットショーのように、枠の中でキャラクターが無骨に音を立てて動く。物語から読者に残されるのは、慟哭である。悲劇なのだからしょうがないが、シャーロットの「ジェーン・エア」といい、エミリーの「嵐が丘」といい、悲しみが深すぎて、嗚咽をあげておいおいと泣き疲れ果てたような感覚に陥る。


朝日が好きか夕日が好きか。そんな質問のように、人間を語るという意味で同質でありつつも、しかし対極にあるこの二作品を堪能した夏休みも、もうじき終わりを告げようとしている。
英国の夏は短く、次の本はもう毛布にくるまって読むであろうほどに風は冷たい。




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