見出し画像

掌編 フラクタルLOVER

フラクタルLOVER  1995字

ナナは幼い頃から凝り性で飽き性だった。あちこち忙しく遊びまわると思えば、急に閉じこもりお絵かきに集中する。ナナの姿を見た大人たちはどう反応していいのかわからなかった。
「サメみたい」と言う人もいた。止まると死んでしまうからだ。

ナナは自分でもコントロール不可能な速さで、ひとつのことにのめり込んでは、同じ勢いであっけなく手放した。すると、再び新しく夢中になるものがやって来た。

「なるほど、わたしって社会不適合者なのね」
自覚はしていた。サメ性質は成長するにつれ強くなった。他人にどう映っているか無頓着で、いつもなにかに没頭していた。

没入していると時を感じない。一瞬が永遠になり、一日が一秒になる。そこに正しさや答えはなく、絶えず流れつづける感覚をナナは愉しんだ。

水のように流動する快楽にどんなことよりも癒やしの効能がある、とナナは思った。つらいことがあっても、夢中になっていさえいればひとりでに癒えてしまうんだから。みんなもすればいいのに。

“人は、なにかに夢中になっている時がいちばん幸せなのだ” 

ナナが15歳の頃だった。
古本屋で見つけた『アリストテレス全集』で出逢った言葉に、衝撃を受けた。

物心ついた頃から「世界には希望がない」と本気で思っていたナナは、絵ばかり描いて生きてゆけるの? と漠然とした疑問を抱えていた。
そうやって世の中に絶望することで、器用に生きられない自分を不安から遠ざけ、慰めていたのかもしれない。

そこに現れたのがアリストテレス師匠だった。
彼の残した言葉は、現代の科学では間違っていることも多い。けれど、そこがかえって人間らしくてナナは好きになった。完璧なんて存在しないことを彼自身が証明してくれていた。こんなカッコいい師匠、どこを探してもいなかった。

アリストテレス師匠によると、人として最高の歓びは「幸せの追求」だという。幸せでいることは人間のポテンシャルの極みであって、動物にはこの発想はない。自ら突き動かされ、クリエイティヴでいるときこそ、その人の才能が発揮される。
ナナは、突然、全人格を赦された想いだった。

──好きなことに没頭し、それを楽しみなさい。そうすることで人類の幸福度が上がるのだ──

こんなこと、まわりの大人たちは誰も言ってくれなかった。

『アリストテレス全集』は、ナナには難しくて半分も理解できなかったけれど、読むと自由になれた。ヒステリックグラマーのトートバッグに入れて持ち歩き、いつも言葉に触れていた。

彼は言う。あなたはもっと集中していい。他のことは放っておいていい。唐突にすべてを捨ててもいいし、昨日までの延長線上の自分を生きなくていい。あなたは、あなた自身を、幸せにする自由があるからだ、と。

──もしも迷路に入りこでしまったときは、インスピレーションという深い海に潜り、そこから『未完全な世界』に教えて貰えばいい──。

『未完全な世界』という言葉にナナはときめいた。これまで感じたことがなかった自分の未来にポジティブな印象が生まれた瞬間だった。

それからどれくらい集中しては飽き、夢中になっては投げ出してきたか、ナナは回想すらしなかった。サメ体質はさらに強化した。

ある日、海を描きたくて海岸沿いに引越しをしたのに、すぐに森が恋しくなり、山小屋で小鳥の曲を作った。森のガラス工房で吹きガラスに夢中になりヨーロッパへ修行に出たら、ひょんなことから写真に興味が移りフィルムカメラに熱中した。

撮影で訪れたプロバンスのオーガニック食材に影響され、すべての食事を有機食材に変えたこともあった。フードジャーナリストと出逢って瞑想に夢中になったときは、本気でスリランカに移住しようとした(思いとどまったけれど)。

それって中途半端なだけじゃない? と言う人もいた。
そんな時ナナは、未完全な世界の愉しみ方を知らないのね、とひとりごちた。

そうじゃないの。熱が冷めてしまったのではなく、ぜんぶフラクタルに連鎖しているの。

Aという出来事からBが生まれ、Cという出逢いにつながり、それによりAとBがより極まる。まるで呼吸するみたいにぜんたいが動きだし、結果、完璧に集約する。その自然さをナナは愛していた。

ガラス工房へ訪れたおかげで写真家に出逢え、フランス語を身につけることができた。南仏のギャラリストでバイトしたら、そのまま個展を開き、出版までこぎつけた。
大切な人たちに安全な輸入食品のショップを紹介しているだけだったのに、気がつけば自らネットショップを運営することになった。おかげでナナは、定職に就かなくとも、じゅうぶん経済的にゆたかさを手に入れた。

損得で動いていたらできなかったことばかりがナナの人生に訪れた。それが、未完全な世界の愉しみ方だった。

いつからかナナは「サメみたい」な人と遭遇すると、夢中の話をするようにした。遠い宇宙にいるアリストテレス師匠へ恩返しのつもりで。


(了)


いいなと思ったら応援しよう!