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源泉回顧録【山形 肘折温泉の思い出①】

 初めての肘折温泉は衝撃だった。およそ5年前、有給と盆休みを接続し山形へ。旅の最後に連泊したのがこの地だった。それまでにも湯治場と言われる温泉街はいくつか見てきたが、その異郷感は他とは一線を画していた。
 
 最寄りのコンビニはまで車で30分、新庄駅までバスで1時間のこの地。
街中から傾斜を緩やかに上りながら大蔵村の奥地へと向かう。終着点を前に螺旋上の橋を旋回しカルデラの底へ。やがて目に飛び込んで来たのは石畳の温泉街。

 車一台分ほどの狭路の両サイドには、法律の不遡及原則により姿を留めている三階建の木造旅館群。現行の消防法や建築基準法では再現は出来まいその風情に圧倒される。

 四万温泉や渋温泉に見られる射的場やスマートボールなどの遊技場も一切ない。コンビニ代わりにポツンとあるのは個人商店。お土産に地酒やお菓子、弁当なども揃っている。だが、湯治客はここではあまり買い物はしないようだ。

 早朝、この街では朝市が始まる。メイン通りに地元民が集い、発泡スチロールをテーブル代わりにおもむろに並べられる地元野菜。炊事場を設けてあいる宿も多い肘折温泉、湯治客は皆朝市で食材を仕入れる。なるほどこの地に朝市が恒常的に文化として根付いているのも納得だ。
 
 朝市は野沢温泉や老神温泉などにもその慣習は残るが、どちらも現在は週に一度。日曜や連休時にイベント的に開催されている、観光資源としての色彩が強いように感じられる。
 そんな中肘折は別格、4月~11月までの期間毎朝開催されている。スーパーに買い出しに行こうものなら、片道40分近くは覚悟が必要だ。朝一は湯治客の生活を支える場でもあり、生産者や旅館業者を支える場でもあるようだ。本場の朝市を垣間見たのはここが初めてだった。


 その時は「ゑびす屋」にて宿泊。特に観光する場所もなく、旅館の湯と共同浴場「神ノ湯」(宿泊者は無料)に徹底的に浸かった。
 食事はお膳スタイルの湯治食、連泊だと一泊6千円以下だった記憶がある。新庄の街中を離れると寒村が続くのみ、街に帰ろうとも何があるわけではない。
 体の痛みは今ほどではなかったが、「治療」としての温泉。そして「湯治場」の印象を強烈に植え付けたのが肘折温泉だった。


 時は流れ・・・


 あれから4年が経過。昨秋にとうとう長年抱えていた全身痛が限界を迎える。家から最寄り駅までも到底歩けないほどの激痛。とある大学病院に入院することに。10年以上町医者を転々とするもハッキリとした原因が分からず、大学病院での精密検査により病の手がかりが掴めればと期待した。
 元々低い白血球や抗核抗体の異常値、そして幼少のころから周期的に襲ったスパイク熱。年に1度、40度近い高熱が1週間続いた。身内にも膠原病患者がおり、全身痛との関連も長年気になっていた。

 
 だが疫病が急拡大していたタイミングと重なり、病名が分からぬまま退院を告げられる。確かに現場が逼迫していたのは肌で感じた。病床はフル稼働、私以外の相部屋の患者はほぼ寝たきりのご老人だった。24時間ナースコールがなり、点滴の交換が行われる。
 時々トイレへと立ったおじいさんがてんかんを起こし「ドン」と音を立て倒れている。流石に放ってはおけず、私がナースコールを押した。
 
 命に別条がないと判断された私が出るのも無理はない。だがその夜、自分のあまりの無力さに病院食が喉を通らなかった。(その後転院し2か月後に線維筋痛症と断定、合併症の調査は現在も継続中)。
 

 退院後、痼疾に加え身体にある現象が起こる。痛みから眠れぬ日々、数種類の睡眠薬や鎮痛剤を投薬しやっと眠りにつく。だがそのわずか2時間後、またしても痛みで目が覚める。今度は身体ではなく「舌」。
 なぜか、歯形がしっかり残るほどの力で舌を噛んでいる。夥しい鮮血が耳から流れ枕カバーが真っ赤に染まった。これはほぼ毎日続いた。

 ”ああ、身体が死のうとしているのかな。いや、雪山の理論だと死なないための体の反応か、、”
 毎朝同じことを考えながら洗面台までヨロヨロと歩き、口元の血を洗い流した。

 ネット情報の請売りだが、原因はストレスや慢性疲労のようだ。パニック障害や重度の不眠症に陥った方の一部にも見られるという。
 やがて悪夢を見ることが多くなり、夢裏で吐血した瞬間目が覚めると正夢になっている。とにかく、薬だけは全く効かず、副作用から意識が朦朧とする日々。

 
 ”症状が少し治まったら湯治に出よう” そう思えたのは12月初旬。行先は特に決めず、あるだけの有給とストック休暇を行使するつもりでいた。治癒する保証はどこにもないが、家で横になっている状態がとにかく危険だった。
 
 行くのであれば、湯治文化が色濃く残る東北へ。

 「肘折、肘折」

 記憶を呼び覚ますまでもなく、最初に浮かんだ温泉地。目を閉じると思い出す憧憬。どれがどの宿か見分けもつかない、右に左に並び立つオンボロ湯治宿。

 徐々に、人生初の長期湯治の草案が成形されていった。



                         令和2年12月ごろ

<次回はこちら>


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