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子どものことが理解できない。
「私はもう、この子のことが全然理解できない」そう言いながらお母さんが泣いていました。先日行われた、中3生の三者面談でのことです。
お母さんは、隣に座るTくんが全然勉強を頑張ろうとしないこと、やればできる子なのにいつまでもやろうとしないこと、学校で提出物(ワーク)さえまともに出さないこと、さらに朝は自分で起きることができず、学校に遅刻することもあり、自分の部屋もまともに片付けられないことなどを挙げながら、息子のことが理解できないし、何を考えているか全くわからないと涙を流していました。Tくんは首を折り曲げて、涙を流しているお母さんのようすを横目で見た後、口をぎゅっと結んでそのまま下を向いてしまいました。
お母さんはいつも一生懸命です。Tくんは、私から見ても勉強すればすぐに成績を伸ばすことができるだけの力を持っているのに全然やっていないことは明らかです。お母さんがどれだけ手を尽くしても、Tくんは言われた時だけ仕方なくやるそぶりを見せるだけで、意志的に何かをやるということをしません。でも、彼は決して何に対しても興味を示さないわけではありません。好きなバスケに対しては人一倍真剣で、部活動の最後の大会が終わったこの夏は、自宅の本棚に差してあった漫画「スラムダンク」にすっかりはまって貪り読んでいます。
子どもに何を言っても無駄なとき、変わろうとしない場合には、本人自身も気づかないままに一種の抵抗を示している可能性を考える必要があります。それは多くの場合、防御反応による抵抗です。では、Tくんの場合、何に抵抗しているのでしょうか。
お母さんはT君のことを心から理解したいと思っています。それは深い愛情のなせる業です。でも、この理解しようとする欲望が厄介なところで、お母さんは彼の本質をそのままに理解しようとしているのではなく、むしろ彼を自分が理解できる範囲に持ち込むことによって、その範囲内でコントロールをしようとしているのです。
Tくんはそれに(ほとんど無意識に)抵抗しています。お母さんは生まれたその瞬間からTくんのことをつぶさに見てきています。当然、Tくんのことが理解できるはずという気持ちもあります。でも、Tくんのほうは、そんなお母さんの意図のままに動いては自分が危ないこと(なぜなら自分が失われてしまうから)を直観して、結果的にお母さんの思惑通りにならないような行動を選び取っているのではないでしょうか。
お母さんはTくんの将来を心配し、彼が学業や生活習慣においてよい方向に進むことを願っています。この不安や責任感は、親として自然な感情です。特に受験期という重要な時期においては、子どもの成功が家族全体の幸せや安定に直結するように感じられることが多く、お母さんはそのプレッシャーを強く感じているでしょう。
しかし、外的なプレッシャーの中で親が子どもを理解しようと試みても、なかなかうまくいかないことが多いです。親の抱える不安や責任感は、子どもにとって共有できるものではなく(これは自然なことです)、子どもから見ると、親は本当に自分を理解しようとしているのではなく、自分の「本当」を無視した自己中心的な行動に見えてしまいます。その結果、子どもは無意識のうちに反発するのです。
相手のことを「理解する」というのは、並大抵のことではありません。自己の欲望を達成するための「理解」は、むしろ本当の理解を遠ざけます。カントの有名な言葉に、「他人を単に手段としてではなく、常に同時に目的として扱わなければならない」というものがあります。つまり、理解を自分の欲望の手段としてではなく、それ自体を目的としたときに初めて、相手を理解する回路が開かれるのだと思います。
※内容はフィクションとして構成しています。
※このエピソードはフロイトの防御機制(抵抗)の理論などを土台にして書かれています。
(西日本新聞「それがやさしさじゃ困る」2023年8月7日)