他人への配慮より、「自己への配慮」
いまの世の中を覆っているのは「既に私も配慮してるんだから、あなたの方もこっちが不快にならないように配慮して」という新しいファシズムで、こういう趨勢で割りを食う人たちをマイノリティと呼びたい。事実は単に人の心が蔑ろにされているだけだが。(2022.7.28)
心が足りないから表向きの「配慮」で済まそうとする。すぐに擬制が剥がれて信頼関係がガタガタになる。これは、ある中学校の対応に感じたことだ。(2022.5.23)
執拗に他者への配慮を求め、常に相手が傷つかないようにしようという世間の風潮が、いまの若者たち、子供たちがつくる関係性に深刻な影響を与えている。過度に「いい子」が増えた。そのせいで関係性の扉が開かれない。「傷つけるかもしれない」と先読みしてしまう「配慮」は他者を理解するコードを初めから遮断する。摩擦と傷つきの中で学べばいいことが学べない。
一度でもハラスメントに抵触すればあの人はオカシイと全否定される。否定されるのは怖いから、自己統制が強まる一方で他人は信用できない。だからエビデンスに縋り付いてかりそめの根拠を得ようとする。もしくは、抑圧から解放してくれる露悪的な本音を漏らす人に惹かれ、自分もその快感に溺れる。
性教育や職業的レリバンスなどの早期学習に一定の意義があるのは間違いない。でも、それが過度な先読みの配慮になってしまっては、世界を愛することができない人の醸成になる。(2022.10.13)
ケアという言葉が便利に使われるようになると、配慮に潜む政治性や階級性を見ないで済ませてしまう悪しき洗練を招くことになる。(2021.10.11)
昨今の真面目な教育者や親たちは、子どもに対する解像度を高めること、詳細に分析することを目指すが、これが良くない。子供は分からないから子供なのだ。そういう畏怖の念がかつての社会には自然に存在した。現在行われている子供の分析は、結局のところ配慮という名を冠した新しい管理の口実になっている。(2023.8.9)
子供に配慮しすぎると、その配慮自体が子供に「弱さ」を内面化させて身動きを取れなくする。子供への配慮よりも、親自身がどうしたいかという自分の声に耳を澄ましてそれをもとに実行する勇気が必要。(2023.4.26)
非対称な大人と子供の関係をフラットにと配慮する大人は多いが、子供は話を聞いてくれる大人の話しか聞かないし、大切にしてくれる大人のことを大切にしようとするという意味でははじめから非対称を超えた対称性がある。先回りした配慮よりも自ずとそこにある対称性こそを大切にすることから。(2022.6.17)
マイノリティへの配慮は、基本的にマジョリティ側が気持ちがよくなる(不快にならない)方向性を取る。その最も簡単な方法は、配慮という名目でやさしくセパレートしてしまうことだ。言い換えれば、世の中の配慮はほぼノーマルな方向への包摂。世の中はみんなでそっちの方向に進んでいるし、そのせいでマイノリティはますますさみしくなる。配慮に隙を残すことが必要。(2023.9.13)
千葉雅也『現代思想入門』では、後期フーコーが見ていた古代的あり方、古代人の「自己への配慮」が紹介されている。古代の世界は現代より「有限的」であり「自己との終わりなき闘いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく」ものであり、古代の「自己への配慮」とは、「あくまで自己本位で罪責性には至らないような自己管理をする」ことであったと。
千葉は昨日(2022.3.28)のツイートの中で、自身の小説の要素を「脱葛藤化する」ことにすべてがあると言っていて、これは彼の仕事を考える上で極めて示唆的である。
この本ではさらに「千葉流」のフーコー読解として「「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうる」(p106)と言う。
内面にこだわりすぎることはつまり、馴致しようとする世の中に抵抗できないということであり、世間の価値観の奴隷として自らその身を差し出すということである。過度に構わないことや自分に固執しすぎないことが、それだけで生政治への抵抗になりうるという千葉の視点に希望を感じる。他人に配慮することより「自己への配慮」である。(2022.3.29)
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