千葉雅也『センスの哲学』読後メモ
昨日、千葉雅也『センスの哲学』を台湾‐福岡の機上で読み終わったので、ここにメモを残す。
現代の「作品」は、フィールドワークなどを通して個別のコンテクストを拾い上げることに重きが置かれるし、作品の土台にある権力勾配について無自覚であってはいけない…というような昨今の「常識」に対して、旧来のマウント的な〈ツッパリ・フォーマリズム〉(しかしこのネーミングには単なる批判ではなくユーモアと敬意を感じる)ではなく〈平熱のフォーマリズム〉を推奨するのがこの本の中身だ。
フォーマリズムというのは、ものごとを、意味や目的ではなく、直観的に「それそのもの」として把握すること。その把握がうまく働くことを「センス」と呼び、その意義を『センスの哲学』として語るこの本は、きわめて「意識高い系」の本と言える。なぜなら、そんなものごとの把握のしかたは世間的には全然一般的とは言えないし、むしろ文化資本の蓄積がある限られた人たちによるいわば特権的なものさしだから。
だからといってこの本は「文化資本ってのは、やっぱりダメだ…」と反省的身振りになるのではなく、かえって〈判断力のポイント〉を学び、それをもとに再出発することで文化資本のある人(すごい量をこなしている人)に対抗することをすすめる。そして、このことを千葉は〈民主的な教育というのはそういうことではないでしょうか〉と言う。ここには目を開かれる思いがした。
公教育の意義のひとつはおそらくここにある。文化資本の形成には〈多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作る〉効用がある。言い換えれば、それは〈どこかに「問題」があること〉をむしろ〈楽しむ〉ことができるということであり、これが人生の機微に触れるのだ。多くの知識人たちはその効用を甘受しながら「いやいや、生活の実感の方が大事ですよ」と嘯くが、そうではなく、真剣なライフハックのすすめとして判断力を教授するという泥臭いことをやるのがこの本だ。(だから結論としてこの本は単なる「意識高い系」とは言えない。)公教育が、文化資本の意義を踏みしめた上で、子供たちに「真剣なライフハック」を通した「民主化」のための努力を怠るなら、どこにその存在意義があるだろうか。
この本『センスの哲学』では、前半に〈センスがある〉ことと〈センスが無自覚〉であることが対置され、〈センスに自覚的になる〉ための方法が、ラウシェンバーグの絵画などを例に、きわめて具体的に、汎用性が高い形で示される。これを読んで、美術館における絵の見方が変わったり、あらゆる事象に〈うねり〉と〈ビート〉を伴った〈リズム〉を見出したりと、実際に〈センスに自覚的になる〉人が多出するだろう。
しかし、この〈センスがある〉と〈センスが無自覚〉はこの本の最後にやさしく反転する。その人の「どうしようもなさ」が表出する〈アンチセンス〉という反復が、芸術と生活(感)をつなげることを実感したとき、そしてそのことを通して、私のピアノの一音に(自己開示という言葉を使うまでもなく)私自身を認めたとき、ようやく私は自己目的的な「私のための〈センス〉」を手に入れるかもしれない。 (2024.5.6)
※〈〉はすべて本文からの引用