『さびしさについて』を読む
『さびしさについて』植本一子・滝口悠生(ちくま文庫)は、もともと自費出版として出された『ひとりになること 花をおくるよ』収録の往復書簡(2021年11月から翌年4月)に新たに2往復のやりとり(2023年7月から11月)が追加されたもの。
往復書簡には、相手の全力の言葉に対してその都度に全力で応答するという流儀の誠実さが見られることもあるが(その例として真っ先に浮かぶのはやはり『急に具合が悪くなる』宮野真生子、磯野真穂 著)、この本では、相手の言葉を参照点にしながらも、思考が流れるままに任せてみるというやり方で主にやりとりがなされていて、それは、言葉が後からやってくるのを待つことに対して自覚的な書き手である滝口悠生という小説を書く人の本領という感じがする。こういう誠実さもあることをしかと感じられるし、無理に対話しようとしない心地よさみたいなものがふたりのやりとりには漂っている。(対話はどうしても相手が理解可能性を有しているという前提でなされるところがあり、そこがたまにしんどいのだ。)
おそらくは一子さん(私の知人なのでこう書く)が「子どものことを話してみたいかな」という感じで始まったであろうこの往復書簡は、穏やかな距離感を保ちながらもこの本の表題になった「さびしさについて」のやりとりあたりから深みを帯びていく。とはいっても、滝口はおそらく深みじたいをよしとしないところがあるので、深みではない浅みをみること自体の深みみたいなちょっとややこしい話なのだが。
滝口は「一子さんの表現の根っこにさびしさがある」というのを「よくわかるような気がする」と言いながら、「一方で、生きている時間にずっと根を張っているようなさびしさを、僕はなかなかリアリティのあるかたちでは想像ができず、それゆえうまく理解ができないでいます。これはいまにはじまったことではなく、以前から気づいていたことでした」と言っていて、こういうさりげない独白に小説を書く表現者の凄みを感じる。唐突に私の話になるが、2020年に『おやときどきこども』(ナナロク社)という本を出した際に「マリアさん」のエピソード(彼女はそのままに世界を見ていた)で試したことは、滝口が言う意味での「さびしさ」を「うまく理解ができない」人間として、それでもその「さびしさ」をその人(マリアさん)の言葉で語らせてみるという(ある意味で不遜な)実験だった(そしてその実験の熱源のひとつに植本一子のデビュー作『かなわない』があった)。そんな私でも滝口がこうして「うまく理解できないでいます」と率直に綴ることに驚いてしまう。案外これはただならぬことなのだと思う。滝口はさらに「僕が思う「さびしさ」」は「かなしみ」であり、「「み」がつくと自分の感情からより離れた、自分と一旦切り離された感情になるような気がします」と言う。なんとわかりみが深い話。と私も「み」をつけて少し自分と離して味わってみる。
この往復書簡の主題のまん中には、ふたりの娘が思春期になり親離れしていくことで一子さんが「ひとりになること」を考える思考の遍歴があり、やりとりを始めた当初はまだ11か月だった娘のことを滝口さんが綴る観察記録がある。つまり、やはりこの本のまん中には子どもの話があるのだが、ただしふたりの子どもの描き方は対照的でもある。一子さんの文章において子どもが主題になることはなく、あくまで自身の中の葛藤に含まれる娘たちが描かれる(そしてこれが植本文学の徹底した魅力である)のに対して、滝口はいつもどこか自我に対して上の空で、だからこそ娘に対して平熱の観察眼を発揮する。娘の日々の変化に対する緻密な描写がただ淡々と描かれているのに、その一瞬に胸をつかまれる。きっとこの本はご本人にとっても極めて意義深い娘の記録になるのではないかという感じがする。(しかし、このような一瞬自分から離れて他者を捉えるような作業を一子さんがしていないということではない。滝口が示唆しているように、一子さんは特に写真で娘たちの一瞬を捉えてきた。私は一子さんの娘さんたちの写真を借りながらいま西日本新聞で連載を続けているが、その写真の力は圧巻である。いつも写真に捉えられてしまう。https://www.nishinippon.co.jp/theme/kodomo_saijiki/)
この文章の最初の方で、滝口を「言葉が後からやってくるのを待つことに対して自覚的な書き手」と評したが、書くことに関する時間的な遅れの問題は、「時間の幅に伴う鈍化を引き受ける」という形で一子さんが日記からエッセイに移行した話に引き継がれ、それはそのままこの書簡の間で差し挟まれた幾つもの滝口の小説論(小説を「どう」書くか、小説が何を行為しているのかの話)に接続されると感じる。つまり、おそらく、ある出来事は「時間の幅に伴う鈍化を引き受ける」ことによってしか書きえないものであり、そうやって編み直されたものとの妥協の中にしかないものであり、しかもそれに居直るわけにもいかないという鋭い問題意識がそこに提示されていると感じられる。この本の魅力のひとつは、滝口の小説や書くことに対する考えのあれこれが、控えめでありながら明確な形で記されていることであり、しかもその実践がこの書簡の文章の中にも垣間見えるところで、それを読むお得感は半端ない。
最後に、文庫版にあたって追加された文章のうち、一子さんが書いた「いちこがんばれ」について。この文章には一子さんが書いたこれまでのすべての中でもピカイチといえるほどの美しいエピソードが綴られている。福岡でのもうひとりの「いちこさん」との出会い、とらきつねの会場でパートナーとの関係を解消したことを話したときに小さな悲鳴を上げたお客さん、そして、友人5人でパートナーの荷物をまとめる会をやったこと。短いエピソードの中に人が経験できる出会いのときめきと可能性が宝物のようにつまっていて、しかもそれがあまりに率直できらきらとした筆致でつづられている。このエピソードはあの日、とらきつねで一子さんを囲んだ人たちにとってもかけがえのないギフトになりました。ありがとう。そして、ときに自己破壊をしてでも前に進む意思を持ち続ける一子さんの生き方が文章の変化に表れている気がして、そこに感動してしまった。
来週28日に一子さんと滝口さんをお呼びして福岡でトーク。それまでに滝口さんの『水平線』を読了するのが目標。まったく場所は違うけれど、私の父は平戸、母は五島出身、つまり島嶼部出身の家系で、私自身もずっと島のことが気になっていて、いま晶文社でやってる連載もほとんど島に行ったときのことを書いているし、毎年正月は必ずどこかの島で年越しをするというルーティンがある(ちなみに2020年は滝口さんの故郷、八丈島で年越しした)。滝口さんには島のことも聞いてみたいという気持ちがある。