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『庭のかたちが生まれるとき』山内朋樹著 キーワード集

『庭のかたちが生まれるとき』山内朋樹著(フィルムアート社)から、この本を読み解くキーワードをピックアップしていきます。この記事をまとめることは5月31日に福岡に山内朋樹さんをお迎えしてお話しするためのささやかな準備の一環でもあります。


〇この記事のはじめに

この本の副題は「庭園の詩学と庭師の知恵」である。ここに対句的に並べられた「庭園の詩学」と「庭師の知恵」はそのまま、本書の奇数章(庭の造形的な生成プロセスとその論理の系列ー庭の詩学)と偶数章(物体、職人、住職等の意図や振る舞いの絡み合いの系列ー庭師の知恵)に交互に並べられた章の構成に反映され、その構成自体が庭と石組に秘められた順序とリズム、類似と反復を模したものとなっている。だから、この本はあくまで本を手に取ることでそのリズムを体感できるつくりになっているが、この記事では「庭師の知恵」と「庭園の詩学」のそれぞれにおける、この本のポイントたるものを拾い上げるにとどまる。

*以下は本文そのままではなく、要約したもの(文意を変えずに文章を改変したもの)が一部含まれます。
*鳥羽の解釈や感想はグレーの枠内に示されます。

こんなかんじで


⦿浅める


深めることでのみ理解するのではなく、浅めることでも理解すること。
深さが発生する根拠に浅さとしての物体の配置の特異性を見てとること。
物体の配置の理由それ自体を、物体の配置そのもののなかに見ること、
あるいは物体の配置の生成プロセスのなかに見ること。p13

かたちの生成の理由を複雑な意図、図像的解釈、歴史的経緯といったその奥へとかき分けていくのではなく、それらをもう一度この浅さの上にもたらすこと。身も蓋もないこの浅さに、あるいは浅はかさに。p14

⇒そのために、庭のかたちが生まれるとき(=庭をつくっている現場をはじめから終わりまで)をフィールドワークする。本書の狙いは、庭の具体的な生成プロセスを参照できる「庭のレシピ」を通して、深みの手前にひろがる、浅はかな物体の構成を見ること。p14-15

*ただし、庭は造形的構成の浅みに純化しきってしまうことはできない。p348

「浅めることで理解する」「浅はかな物体の構成を見る」というのは、既存の概念でいえばフォーマリズムのこと(千葉雅也『センスの哲学』においてこの本『庭のかたちが生まれるとき』は「フォーマリズム、美術」の読書ガイドの中で登場する)で、それは「かたち」という用語で明確化される。ただしそれはあくまで手法であり、庭を造形的構成の浅みに純化しつくすことを目的とするものではないだろう。


庭師の知恵

⦿てみる話法


「てみる話法」は、行為をとおした物への問いかけ
複雑な物と道具と身体の関係における、協働すべき事物の複雑な振る舞いの不確かさのあらわれとして p83-85

不確かさは事物のみならず、構想・設計自体が不確かで基準がない p86-100
物の配置をいまここで決定しまうことの無根拠さを示すもの p118

「てみる話法」は不確かで基準がないことを示すものであっても、基準がないことに居直ることではない。むしろその都度に不確かさの中の確かさのようにして生起してくる基準を、その都度に参照点としていく営みの中に「てみる」があるのだ。(⇒次の「者の折衝/物の折衝」を参照)

⦿者の折衝/物の折衝


作業者や物体を巻き込み、相互に折衝させる媒体はどこにあるのか? p108
者の折衝は物の折衝を媒体にして可能になる p114 ⇒三叉の例 p206-213

庭において、折衝は、この庭そのものを媒体に、実際に物体を操作しながら身体的な判断をもとにおこなわれる。=この庭そのものが庭の設計図 p115

職人たちは、言葉や指差しや身振りや地面に書いた線や実際に物を置くことをとおして、古川(庭師)自身もまだはっきりとつかんでいないイメージをかたちづくり、調整し、折衝し、再調整するなかで、ともに庭のかたちをつくりだしていく。p119

庭における基準とは、関係を下から支える土台、あるいは上から吊り支える図面のようなものではなく、同一平面上に分散する物体相互の揺らぐ関係の束 ―DIY的結束ー それ自体である。 p223

物の折衝は、参加する者それぞれにとっての見た目をまたいで形成されるので、誰か(どこか)の視点に固着化させることなく異質な複数の目で見ること、つまり互いのパースペクティブを交換することが推奨される p241

「互いのパースペクティブを交換する」というヒントはあらゆるチーム論、ビジネス論にも通じる話だが、そのためには、本書に登場する三叉の例のように、同じ道具を同じ平面で揺らぎながらチーム員が共に扱うような場があるとよいのだろう。

⦿偸む(ぬすむ)・捨てる

この書における庭師の知恵を象徴する言葉

偸む
庭師たちが小さな嘘をつく合言葉
折あいのつかない二つ以上の見た目をギリギリ満たす均衡、より率直に言えば、ギリギリ満たさない均衡をつくりだし、折衝すること
関係する諸要素が、どれも正しい位置をとることはできないが、しかしそれぞれがそれなりに見えること p237
すべてを微妙に狂わせるような調整こそが、結果として、矛盾しあったままの整合を可能にする p238
基準もないまま相互参照的に編み上げられていく結束の中に、どうしようもなく現れるゆがみ、矛盾、摩擦といったものを調整する技法のことで、関連するものがそれぞれ理想的でない位置をとることによって全体をおさめること p239

捨てる
事物の強烈な特性をある種のクセとして捨てる(余分な特性に対して目をつぶる/度外視する)こと。これによってクセは特異性として残ることが可能になり、他と無縁のままに隣り合い共存する。
非関係によってこそ可能になる共存があり、この意味で捨てるのだ。p244

揺らぐ事物のあいだに仮説的な関係をつくり、相互に矛盾しあう物体間の関係を偸み、強烈なクセを捨てることで共存させる。複数の物体間や複数のパースペクティブのおさまらなさを形式の水準から一様に均して関連づけてしまうのではなく、バラバラでガタガタな非関係にもとづく物体とパースペクティブの係争状態それ自体の均衡をつくりあげる。この「物騒な共存」p248

「偸む」あるいは「捨てる」とは、最小限の共同性の中で、解決できない矛盾や軋轢をやり過ごしながらも共存させる、物、または庭を媒体とした庭師の知恵のこと p252

ここで扱われる「偸む」「捨てる」は、極めて汎用性が高い話。まさにこれは社会における「政治」の折衝の話であるし、ビジネス論でもあるし、さらに「多様性社会」の上っ面の「配慮」に対するカウンターにもなりえる話である。上っ面の「配慮」のせいで「物騒な共存」の場が認められず、そのせいで政治的折衝の機会もないままに今日もどこかで個が抹殺されるのである。

⦿有情性

「てやる用法」
庭師(古川とそのグループ)による物の見かたや物との関係のつくりかたを反映し、その技術を象徴的に指し示す話法
「てやる」はその行為の恩恵の受益者を有情物(「~がいる」/対義語は無情物「~がある」)として想定 p254

石に歩かせる
石の重さでその石を運ぶこと/石に行為主体性をあたえて歩かせること
全身で支えていないといまにも倒れそうな不安定な石を、むしろ体から離して向こう側に倒す(でも本当に倒してはいけない)ことで石を前に進ませる p260
ちょっと横から介助してやる p263
うまくやれば石は自力で歩くことができるのに、下手に抱えたり支えたりするといつまでたっても歩けるようにならない p261

有情性とは対象の性質ではなく、むしろ職人たちの働きかけによって、職人と物をまたいで現れるなにごとか
このような、物が媒体となって者を、者が媒体となって物を折衝する庭師の知恵には物/者をまたいだ行為形成の技術がある。この変容の技術こそ、物/者の折衝の核心 p265

物と踊る技術
職人たちが古川から指導を受けるのは主に「体の使いかた」。この場合の体の使いかたとは言い換えれば「物と踊る技術」のこと。すべての仕事には「いい格好」という言葉で指示される体の使いかたがある。
古川は「てやる話法」をとおして、職人たちの身体に有情化の技術を、物と踊る技術を保存しようとしているのではないか p267-269
「体の使いかた」「物と踊る技術」を習得することは、習慣的身体という自然な台木に、庭師たちが連綿と自らの身体に刻印してきた技術的身体という別の意味で自然な穂木を無理矢理接ぎ木して巻き込み、自然化させるほかたどりようのない身体操作の技術
どこまでが習慣的身体でどこからが技術的身体か識別できないほどに癒合した非自然的「自然さ」へ。あとから振り返ってみれば「自然にやったらそうなる」のだと言うほかない接ぎ木的自然へ。道具を「遊ばせる」ことでそれを最もうまく扱うことができ、体の力を無駄なく最大化できる p271-275

庭仕事の核心にあるのは、物や道具と体の接触面で発生する有情化の技術
五感横断的に物と道具と体の複合体を感知し続け、ともに作業し続けることで、いくつもの物/者をまたいだ複合的な行為体が庭のなかで作動しはじめる。石-職人が歩きはじめ、石-道具-職人が遊びはじめる。物/者は踊る。p278

この「有情化」は、「ものを擬人化すること」と言ってしまえば読者的には入口としてわかりやすいのだが、著者がそれを避けるのは「擬人化」はつまり物を人間化することであり、人間に主体が置かれることは避けられるべきという判断からであろうか。あくまで物/者は相互関係にあり、一方が主導権を握っているわけではない。



庭園の詩学


⦿こはんにしたかいて


石が「求めるところにしたがう」の意味。『作庭記』より p49-50

研究者のように解釈するのではなく、石の乞うところにしたがって庭師として行為する。つまり、石は庭師たちの行為を触発する(行為を促す)もの。p51-52

庭は「変なこと」を避け、経験の厚みに裏打ちされた直感的判断から生成される。それゆえ、庭はどのようにつくりかというよりも、むしろ半ば自動的で必然的な流れから「こうなっちゃう」もの  p181

「変なこと」を避けられるようになるというのが、仕事において場数を多く踏むことの大きな意義のひとつ。

⦿重心・力の場・流れ


重心…庭という場における量的あるいは重量的な中心

力の場…庭は、順序やリズムを前提として、あっちに置くとこっちにも置くことになるような必然的展開が生じるという、石をひとつ置くごとに変動する不安定な場。石組とは不安定な場の重心を絶えず探り続ける試み。つまり庭は、さまざまな物体(とりわけここでは石)が相互に作用し、拘束しあう「力の場」であり、庭づくりとは、ひとつの物体が置かれるたびに変わっていく場に、新たな物体を巻き込み連鎖させていくこと。庭とはこの連鎖の結果として残る物体の配置のこと。p58-61

流れ…布石によって石の間に関係性ができることによって生じるリズム。「関係性ができてくる」のは石と石の間に類似と反復があること p132-139
「似たようで似てない。似てないようで似てる」「そういうのがあるとリズムが出てくる」=ごたごたからリズムへ p142

石を据える行為は、あらかじめ庭に満ちている他性に、つまりは偶然的な力の場に触発され、そこに巻き込まれ、介入する行為である。石を打つたびに変容する不安定な場は次の石の配置を強く拘束し、それゆえ、自分ひとりで決定しているのではないという直感を庭師にあたえる。p74

ここは庭(布石)の芸術論のど真ん中の話で、ゲーム論、政治論でもある。千葉雅也『センスの哲学』と合わせて読むと相乗効果が期待できる箇所。
これを読むことでこれから庭の見方が変わるであろうことを実感できる。

⦿意図と非意図

非意識的意図
制作プロセスの中で、各構成要素は制作物の表面にバラバラにかたちづくられていくが、そのときにそれらの構成要素は制作者の思考の一部を物質的に担う。それゆえ制作者は、制作物があちらこちらに物質的に担い、堆積させている意図とでも言うべきもの(非意識的意図)を、あるとき発見して遡行的に意識することで、あらためて実現する。「部分的に庭が考える」 p166

庭と非意図
しかし古川の庭の制作実践の中では、非意識的意図非意図的偶然は混成状態にあり、非意識的意図とそれら意図の事後的な我有化というモデルだけでは「強すぎる」。そのため、古川における非意図(的偶然)の重要性に着目する必要があるし、さらに言えば意図の有無以前に、古川はこの庭のすべてを見ていないために(認知的限界があり、庭には一望することができないという特性があるため)、非意識的意図(庭の思考)だけでなく、意識的非意図(意識的であるのにかかわらず意図から落ちてしまうもの)が埋め込まれている。p165-170

古川は偶然的要素を即興的に「補強」することで自らの石組と架橋し、意図と非意図を横断しながら部分的に我有化する p330

ちなみに、布石は庭師たちの労力の節約と身体の制約から必然的に表れてしまう場合がある=無意識的布石  p315

極めて繊細な議論がなされている箇所。平倉圭『かたちは思考する』を踏まえて、非意識的意図を参照点としつつ、庭づくり(古川)における非意図的偶然をどの程度許容(といっていいのか)するのかが焦点になっている。
ちなみに、ケアすること、寄り添うことは、ケアする主体から降りられないときに滞りやすいが、それについてのヒントもここにあるなど、この箇所の内容は広く応用がきく。

⦿あってないような庭

古川は徹底して、石がたまたまそこにあるというような非意図的な無意味さに賭ける。古川の理想「あってないような庭」p174

古川=作品という単位を認めない「あってないもの」へと向かう制作観
→オーソドックスな庭

住職=新しい造形的達成とともに作品を残すことを求める「ありてあるもの」へと向かう世界観
→オリジナルな庭  p197,352

ここで古川と住職の庭の制作観の対立が描かれる一方で、後にはこの二つが意図の外部からやってきた偶然(立石)によって調停される(作品化させようとする意図なしに作品化したかのような)場面が描かれる (p355) が、この本ではそれをさらにわざわざ覆すようなエピソードが紹介される。それを解くキーになるのが以下の「自然化」「欠きたい」あたり。

⦿自然化

古川は、「あってないような庭」をつくるために、意図的に据えた石や植栽さえも非意図的なものに変形しよう(=自然化)としさえする 

石組とは「山の岩盤の一部がここに見えている」ような「自然化」のこと。
つまり、石組は造形的な意図だけで配置されるのではなく、その造形的特性は地形という広域的な造形的構造の名残りとして現れてくる。地形という広域的構造が、石組という庭内部の局所的構造を統一する。p288-295

景石を据え、植栽を剪定することすることによって、それらを支える地下や後ろを遡行的に浮き上がらせ、景石や植栽をあってないようなものに変容させる。

古川の庭づくりは、穏やかに連続する石の流れや偶然的な物体の裏面だけに委ねられるものではない。そこ(庭を「自然化」すること)には、特異点と流れ、意図的なものと非意図的なものといった相反するものの拮抗がある。
閉じながら穴を穿ち、開きながら巻き込む。閉ざされと開かれといった理念を直接操作するのではなく、もっと具体的に、どこをどの程度開放し、どこをどの程度閉鎖するか、なにを見透し、なにに巻き込むかという局所的で複合的な拮抗の調整がおこなわれる。p338-339

古川の庭は、つくられることではじめて、つくらなくてもよかったものになる。p370

繰り返しになるが、この本の面白さは庭づくりを意図と非意図の折衝として捉えているところであり、その点があまりに汎用性が高いのである。あらゆる局面において「見る」というのはそういうことではないか。

⦿地形のリズムとつながる

古川の庭づくりにおいては、透かし(植栽の剪定によって庭の外部を見透かせるようにすること)によって、外部に抜け、後ろとつながっていくことが重要視される。

古川は庭の流れがその奥や後ろとつながることで「山の岩盤の一部がここに見えている」ことを想定している。この想定の下では、庭の石組の支持体は地形であり、石組とは露出した岩盤である。石は地下でつながっている。p284-288

石組は地形や岩盤の痕跡なので反復的な構造を持ち、この構造は造形的選択の外部である地形や岩盤のありさまに規定される。

自由だけど統一がある、その統一が出せるかどうか……つまり石組は自由な造形的関係だが、その上で地形の力学に結びついた統一を出せるかどうかが重要。
その土地の地形は同じもの(同じ風化作用を受けたもの)だからリズムがある。でもみな同じかといえば微妙に違っている。

平倉圭『かたちは思考する』の2章(大地と像)を思い出しながら読んだ。この地形と共振するダイナミズムに、私の個人的興味がある。

⦿生得の山水を生起させる

古川(庭師)の庭は、決して特定の物語や図像のような深みを表しているわけではない。むしろ石や地形や植物といった要素の形態や色彩や大きさが他の要素と結びつき、複合的に関係しあう浅みにおいてつくられていく。
しかし石は据えられた瞬間から、なんらかの「もとの状態」の痕跡であるため、石が据えられることで遡行的に表現される地形の力学や地下の岩盤、つまりは、もとの状態としての自然という深みでもある。

「あそこはこうであった、ここはどうであった」という庭づくりをせよ(『作庭記』)⇒それはすでにある生得の山水をあとから模倣してつくるというだけのことではなく、痕跡としての庭をつくることで、あとから生得の山水を生起させるという倒錯的な事態

まるで庭に据えられる石は、データとして蓄積された記憶としてのシニフィアン連鎖(ラカン)のよう。無機質なそれらが連鎖することで、遡行的にシニフィエが立ち上がる。

⦿欠きたい

古川「石組を見せよう見せようとはしたくない」「石を見せようとするのは造形が造形で終わってる」 庭の造形は石を「隠したほうが見やすい」
⇒「だから、欠きたいんだよね。完璧なものではなしに」

庭の造形的完全性の中央に、古川は最後に、否定の亀裂を走らせる。

欠くこと、ほころびがあることが自然ということなんだろう。
余韻を残しながらこの本は終わっていく。
そういえば、余韻にも欠くことがかかわっている。



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