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「反省」という病について

人が反省してるときって、単に他人の反省しろ落ち込め不幸になれという自分に向けられている(と想定される)負の欲望を内面化してそれに準じようとしてるだけで、自身の手持ちの感情ではないことが多い。だから反省には卑屈さと自己憐憫が付き物。手放したほうがいい。(2022.12.7)

さかんに反省したがる人がいるが、その実は「卑屈になってもこの身勝手な欲望を認められたい」という思いの発露であることが多い。反省しているときには、反省したがっている自分に気づくのがとても大事。(2022.11.8)

本を読んだり人の話を聞いたりしたときに自罰的に反省する所作って一種の幼さの現れなので、私の本を読んで反省している人たちを見ると、読んでくださってありがとうございますと思う反面、複雑な気持ちになる。
自分に落とし込んで考え続けることで思考の位相が変わる、その結果、別の現実が現れる(顕わになる)というのでしかないのに。
大人の精神的自立ってこの観点(「反省」に捉われすぎずにただ考え続ける胆力)で捉えられるべきではないかと。(2021.12.18)

かつて「〇〇しなさい」と一方的に子供に押し付けていた大人たちが反省して「AとBのどちらがいいか選んで」と自由選択をさせることで本人の意志を尊重する形を取りがちになったけど、これによって意志の牢獄化が加速した。
選択肢という形はAとB以外の多元的な世界を封じて大人のフォーマットに子供を巻き込むことなのに、大人も子供も「自由な意志を尊重している(されている)」という勘違いをしてしまう。さらに子供は、大人が作った現実に巻き込まれながら意志を強いられていることには変わりがないのに、意志を尊重してもらってるんだから選べない私はダメだと思うし、大人のほうもこの子は意志薄弱だ優柔不断だと言い出すという地獄。反省の悪循環とも言える。(2024.5.11)

子育てを反省するなんて子供を侮辱している。 (2022.3.28)

子供は親に恨みを持っていいし、一方で親は子供から恨まれたって反省なんてしなくていい。子供はお前のせいでと言っていいし、親はそんなの関係ねぇしと言っていい。そういうもんだと思う。(親子にはいろいろあるが、この冷めた考え方をベースにしたほうがいい。)(2022.3.28)

世の中は反省や葛藤に覆われている。私の最初に書いた本『親子の手帖』(鳥影社)を読むと、書いている私自身が世の中の「反省」モードに巻き込まれていて、そこから逸脱しようとしながらもどうしようもなく巻き込まれていることが自分でわかる。この本は、どうしても「内面」にこだわりすぎる著者と読者による反省と葛藤の記録である。
千葉雅也さんは『現代思想入門』の中で、極めて慎重な筆致で、そのような捉われに対する「逃走線」へのヒントとして、後期フーコーが見ていた古代的あり方、古代人の「自己への配慮」を紹介する。古代の世界は「もっと有限的」で「自己との終わりなき闘いをするというよりは、その都度注意をし、適宜自分の人生をコントロールしていく」ものであり、古代の「自己への配慮」とは、「あくまで自己本位で罪責性には至らないような自己管理をする」ことであったと。そこから千葉さんはさらに「千葉流」のフーコー読解として、「内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうる」(p106)と言っており、ここに「脱葛藤化」、言い換えれば、反省せずに健やかに生きるヒントがある。それにしても、「大規模な生政治への抵抗としてそうする」と言われると、やるぜという気になってくるではないか。(2022.3.29)


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