【掌編小説】鍋底に宇宙

鍋は良い。
身体が温まるし、手間もかからないし、後片付けも楽だ。ああ、やっぱ寒いとこでは鍋に限る。
毎晩のように鍋を食べている。加熱調理のみの一人用鍋なんて物がスーパーの総菜コーナーに並んじまっているもんだから、俺の中に飼っている料理人は随分と暇を持て余すようになっちまった。それに、昆布出汁だし、魚介風味、キムチみそ仕立て、スープの“ヴァ”リエーションが豊富だから、一週間その一人用鍋シリーズだけで晩飯を回せちまう。こいつが余計に料理の手間暇という内面文化的な情緒の衰退を加速させちまっているんじゃねぇかと、俺はしばしばいぶかっている。
働くのは作業、寝るのも作業、汚ぇ話で申し訳ないが、ここ最近は性欲処理だって作業も同然だ。効率重視、利便性重視の生活に支配され尽くして、このまま死まで一直線の下りジェットコースターなんじゃねぇか、って時々思うことがある。
そんな単調で全自動な日々を繰り返していくうちに、とうとう料理にかける時間まで奪われつつあるという事実に、俺は心の底から慄然りつぜんとした。そのせいで掴んでいた豆腐を箸から鍋へ落としてしまい、キムチのスープがシャツに飛び散って染みが付いちまった。
不安だ。よく自信家とか余裕があるとか、そんな評価の言葉をかけられる俺だが、まったく違う。当然、虚勢も意地も張っているし、できる、やってやる、と過剰なまでに脳を麻痺させて人前に立っていることが常だ。会社や取引先では強面で敏腕という印象で通っている俺が、宇宙のように膨大な不安や弱音をひた隠して化けの皮を被っているということなど、きっと誰も知りやしない。
知られてはならないのだ。ある種のチームリーダーという立場上、大胆不敵にゴーサインを出している、ように見せている。この人が大丈夫と言っているのだから大丈夫だ、とチーム全体に思わせなければならない。本当は胸の内に途轍もないリスクを抱えていたとしても、それを周りに悟られてはならないし、失敗しないように数瞬単位で軌道を微調整しながらプロジェクトを進めていく責任がある。その甚大なプレッシャーは見て見ぬふりをしていても、確実に俺の脳に浸食して巣を広げ、思考を鈍化させる。
俺は基本的にネガティブな男だ。すべての物事が上手く運ばないと思っているし、綿密に企画を練って完全無欠に見える実行計画を立てても、どうせどこかに穴があるに違いないと常々思っている。
不安になると、脳は思考を始める。思考を始めると、だんだんと視野狭窄に陥る。そうすると、見えていたはずのリスクが見えなくなり、拾えていたはずの功績を見落とす羽目になる。
負のループは厄介だ。放っておくと、どこまでも墜ちていける。あれが上手くいかなかった、どうせあっちも上手くいかない、自分にリーダーの素質なんてなかった、あいつのほうが優秀で適任だ、この仕事向いていないかもしれない、自分にできることなんて何もない、自分なんて必要ないんじゃないか……。ネガティブ思考は果てしない螺旋を描いて、ゆっくりと、着実に、闇の深淵で大きく口を開けて待つ死神の元へと身体を引き連れて行く。
どこかのタイミングで、脱却する必要がある。足を踏ん張って、渦から虚空へとジャンプし、手当たり次第に安全地帯を探して着地する必要が。
負のループからの脱却。俺の、というか、人間の一生は延々とこれの繰り返しなんだと思う。
その手段として、無駄や面倒や暇という要素は欠かせない。できるだけ幸せに生きるには哲学が必要だ。そして、それは一滴の想像から波紋のように広がっていくもんだ。
何が言いたかったかというと、面倒な時間ってのは一日の中でもかなり重要度が高いということだ。
……なんの話だったか。ああ、そうだ、鍋の話だ。
火にかければ二分足らずで一人前の鍋が出来上がる時代になっちまった。俺は割と、この事態に危機感をもっている。
湯船に浸かる風呂、眠る前のストレッチ、飯を食う前の料理。読書でもサウナでもなんでもいいが、ああいう時間ってのは、実はかなり重要なんじゃないか。最近の落ち着きを忘れた高度情報化社会を冷静な眼で眺めていると、尚更そんな気がしてならない。
リラックスして、無心になれる時。俺にとってそれは、料理をしている最中だ。そして、そういう時に頓珍漢な想像にふけって密やかに楽しむのが、俺の日常に小さく灯るささやかな至福だった。
料理で鍋といっても、包丁で野菜や豆腐や肉を切って、昆布か煮干しか何かで出汁を作って、以上終了なわけだが、その間に俺の副交感神経と脳内を巡る、その、なんというか、わくわくして踊り出したくなるような何か、これが人生においてかなり重要な割合を占めているんじゃないかと思う。
昔は趣味で小説を書いていた。本格的な文学ではないし、世にも出せない稚拙な駄作ばかりだが、俺は他愛もない文章を無限に連ねるのが苦じゃなかった。おかげで学生時代のレポートや筆記試験、仕事の報告書作成に取り組む際なんかは、思ってもいない優等生の言葉が魔法のように次々と浮かんだものだ。
俺がもう少し天才だったら、夢の印税生活で有象無象の跋扈ばっこする俗世とはおさらばできたのに。
そんな話がしたいわけじゃなくて。あれ、なんの話だっけ。
ああ、そうだ、鍋の話だ。
要は、変な想像をしながら食う鍋は美味い、って話だ。
あれ、そんな話だったっか? まあ、いいだろう。
鍋、特にしゃぶしゃぶとか牡蠣鍋をしていると、こんな現象が起こることがある。
野菜や豆腐を入れて熱々に沸き立つ鍋に、あとからロース肉やブリとかタイとかのお刺身、牡蠣なんかを投入する。しゃぶしゃぶは、本来なら箸で肉を掴んだまま二回三回と湯にくぐらせればいい。それはそうなんだが、入れた拍子に箸で掴み損ねてしまったり、入れてから目を離してしまうことだってあるだろう。
そんな経験、きっと誰にだってあるはずだ。だから、俺が次に何を言いたいか、なんとなく察しがつく奴もいるかもしれない。
そう、消えちまうんだ・・・・・・・
何が? 肉が。さっきまで箸で掴んでいたはずの、肉や刺身が。小さく縮まないようにあとから入れる牡蠣も、ふと目を離すと同じ怪奇現象が起こる。
しゃぶしゃぶしようとして鍋に入れた肉が、一瞬視線を逸らしただけなのに、再び注意を戻す頃には消えている。そして、その肉は野菜がひしめく出汁スープの海を漂っているはずなのに、どこをひっくり返しても見つからないのだ。
そんなはずはない? いいや、そんなはずはない。しゃぶしゃぶをやったことのある人間なら、きっと誰もが一度は肉に逃げられているはずだ。すぐに捜索船を出して、まだ肉が柔らかいうちにサルベージできた事例はただ運が良かったとしか言えず、非常に稀だろう。大抵の被害者は一番の食べ頃、タイミングを逃して、すっかり火が入り過ぎて硬くなってしまったそれを食うという屈辱を味わっているに決まっているのだ。
ああいう時、俺は野菜の山を掘り返しながら考える。箸から逃げ出した肉は、一体どこに行っちまったんだ、と。
すると、俺の中に飼っている夢想家がいくつか仮説を挙げてくれる。
問:しゃぶしゃぶの鍋に投入した肉や刺身はどこへ消えるのか。
仮説1:鍋のスープに溶けて跡形もなく蒸発した。
仮説2:鍋の中に肉食傾向の強い野菜が巣食っている。
仮説3:熱で鍋に張り付いて、チョウチンアンコウの交尾のごとく鍋と一体化してしまった。
仮説4:掘り返す箸の動きに合わせて野菜の陰から陰へ飛び移り、ひたすら死角で隠密している。
仮説5:鍋の底に宇宙船へ通じる緊急脱出用のハッチがあって、そこを通って箸の追従を逃れ、こっちの世界に棲む俺では手の届かない、ワームホールを抜けた先の異世界へと行方をくらませた。
独り身で話し相手がいないと一人で完結しちまう。誰かと分かち合えないのが少しばかり勿体ないのだが、無表情で反応が薄い奴でも、頭の中で何を考えているか分かったもんじゃない。なんせ、会社では強面かつ大胆不敵で通っていた俺自身がこうなんだから。
鍋の中に入れたはずの肉がなかなか見つからない。当然、消えたわけじゃなく、どこかに埋もれているだけだ。しかし、消えたとしか思えないほど見つからないことがある。
こんな具合に、些細な現象から妄想を繰り広げていくことで、一本の小説が生れてくるのだと俺は思う。
牡蠣を見失ったら大変だ。そこらじゅうを探し回って、ようやく見つかった頃には、時空が歪んじまったんじゃねぇか、ってぐらい縮んでいる。あれこそ、本当に鍋底のハッチに逃げ込んで、ワームホールから向こう側の世界へ逃れる寸前のところで捕獲したんじゃないかと疑うほどだ。
今度、また鍋をやる機会があれば、鍋の底が宇宙船と繋がっていないかどうか確かめてから出汁スープを作ることにしよう。もし仮に、そこにハッチが設営されていれば、案外、俺が太陽系第三惑星に帰れる日が来るのも夢ではないかもしれないからな。

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