【掌編小説】Folktale
するすると草原を靡かせる風は仄かに湿気を帯びており、数日も待たぬうちに痺れるほど寒い冬が訪れるであろうことをひしひしと予感させた。
澄み渡った地平の彼方に聳え立つは、マンスター地方最高峰であるダグザ山。その稜線の切れ目から昇ってきた大きな白日が、有無を言わせぬ勢いで猛然と夜を押し退けていく。煌々と柔い光を散らし始めた森の落葉樹は、瑞々しい夏色の衣を一斉に脱ぎ捨て、赤、黄、橙と色彩豊かな暖色を纏う季節になった。
時候は秋である。
どこか海のほうで汽笛が響き、鶏がけたたましく鳴いて朝の到来を町に知らせた。すると、ダグザ山の頂に構えるデズモンド伯爵邸の厳かな前門が低い音を立ててゆっくりと開くのが見えた。麓の家々の煙突からは滔々と煙が立ち上っており、白み出した空の下ではすでに人々の気配が漂い始めている。
「やぁ、リアン。君は、ずっと本ばかり読んでいるね、え?」
地面に生い茂る牧草を頻りに食んでいる山羊たちが逃げ出さないように仕切られた木柵をひょいと跨いで、ここら一帯の丘陵地を牛耳る家畜商クラン・オコナーが放牧地へ入ってきた。その右手には無垢材で編まれたバスケットが、左手にはポットが握られている。両手が塞がっているのにもかかわらず、体勢を崩さずにフェンスを華麗に飛び越えられるのは彼の天性の運動神経なのか、それとも、日々の力仕事によって後天的に身についた体幹なのか。あるいは、彼が自分に背負わせている何かしらの禁忌に相応する神からの賜物なのだろうか。
「ああ、オコナー農商会長。おはようございます」
文章を目で追うついでにオコナー氏に一瞥を流すと、彼はわざとらしく咳払いをして溜息を吐いた。
「そんなにかしこまらないでくれ。気安く、クランでいい」
「……おはようございます、クランさん」
「ああ、おはよう。朝食にしないか、リアン。昨日の朝に開かれた商会取引で米粉が手に入ってね、そいつでブレッドを捏ねて焼いてみたんだ」
再び見遣ると、オコナー氏はバスケットを提げた右手を胸元の高さまで持ち上げた。彼は膝下まですっぽりと埋もれるほど丈の長い地下足袋を履いていたが、軽やかな足取りで草原の丘を跳ねるように駆け上がってくる。
「ありがとうございます、いただきます」
「ホットミルクを入れよう。ここの山羊たちから搾って精製したものだ」
瞬く間に私の隣まで走ってきた大男は、ひとつ深呼吸をすると、大して息を荒げる素振りも見せずに草原にどんと座り込んだ。
すると、芳醇なパンの香りがふわりと鼻をくすぐった。匂いに釣られて置かれたバスケットを覗いてみると、その中では磁器のマグカップ二つと丸くて愛らしいパン三個が、吹き抜ける秋風を凌ぐように身を寄せ合っていた。
「朝ごはんでしたら、合図で呼んでいただければ私から母屋に参りますのに」
「こんなに気持ちの良い朝は、外で食べるに越したことはないのさ」
オコナー氏はバスケットからマグカップを取り出すと、ポットを傾けてとろりとした山羊の乳を注いだ。
私は読んでいた小説を閉じ、まだ温かいパンのひとつに手を伸ばした。馴染みのある小麦のパンよりも柔らかく、しっとりとした質感である。千切ってみると粘るように伸び、それだけで水分を多く含んでいることが見て取れた。欠片を口に放り込むと、やはり乾いた小麦のトーストとは異なり、弾力のあるもちもちとした食感が歯に纏わりついた。
「不思議な食感です。丸めたティッシュペーパーを噛んでるみたい」
「気に入らなかったかい?」
眉を顰めたオコナー氏にマグカップを差し出され、私は慌ててかぶりを振った。
「いえ、違います。味はとても美味しいです。ただ、これに似た食感を思いつかなくて、つい……。語弊を招く表現でしたね」
温かいミルクで流し込んで私が弁解すると、オコナー氏はカラカラと高らかに笑った。
「いや、いいんだ。リアンは語彙が豊富だからかな、君の喩えは僕の頭では絶対に出ないようなものが多いから、聞いていて楽しいよ」
オコナー氏はバスケットから米粉パンを一つ取ると、丸ごと呑まんとする勢いで大きな口を開けて豪快に歯を立てて齧り付いた。
「んー……、そうか、バターは混ぜないほうが良かったかもしれない。でも、甘くて美味いな。まぁ、たしかに言われてみれば、食感は丸めたティッシュペーパーに思えなくもないか」
この放牧地はこんもりと盛り上がった丘陵の中腹に位置しており、朝靄がかかっていなければ、ダグザ山の尾根を越えた先に広がるコノハト王国の港町まで見渡すことができる。
私はオコナー氏の経営する農場に住み込みで働いていた。
農民の朝は早い。まだ暗いうちに山羊と牧羊犬を小屋から解き放ち、うっすらと光を帯び始めた空気の中で小屋の清掃を終わらせた後、本を片手に牧草地の斜面に腰を下ろして、ダグザ山の背後から浮かび上がってくる太陽をのんびりと待つ。この一連の動きが、ここ最近の私の日課となっていた。山羊の世話は私に割り振られた仕事の一端なので、朝起きて勝手に始めていてもオコナー氏から咎められることはなかった。
「アルスターの噂は聞いたかい?」
ようやく米粉パンの一欠片を腹に収めたオコナー氏が訊いてきた。
アルスター。マンスターよりもずっと北方にある、ウィスキーが有名な王国である。現在、隣り合う西の大国コノハトとの間で戦争が勃発しているそこには、太陽神ルーの実の息子であり、アルスター民たちの精神の拠り所である英雄クー・フーリンがいたのだが……。
「ええ、半神半人の英雄が倒れた、って……。本当なのでしょうか?」
「分からない。今朝の市場も大混乱だった。聞くところによると、自身の愛槍を奪われて、それに腹を貫かれて死んだ、って話だ。くだらない牛の取り合いが始まってもう七年が経つが、どうやら決着がつきそうだぞ」
オコナー氏が淡々と言うものだから、ぞわりと戦慄を覚えた私は鳩尾のあたりを擦った。平然を装ってミルクを腹の底に落とすと、躰の内側に張り詰めた悪寒を解すように、まろやかで甘美な温もりがじわりと四肢に染み渡った。
アルスターの勇者、死す。昨晩、下町の郵便屋が号外で寄越した伝書オウムから口伝えで耳にした情報である。オウムはしばしば真実とは異なる報道を流すことがあるから、あまり真に受けないほうがいいのだが、とはいえそれは町中を震撼させる報せであった。
クー・フーリン。北方アルスターから西部コノハトを越え、南西部マンスターにまで名声を轟かせている半神半人の戦士。その存在の噂は、当然、アイルランド最南端の田舎町でも有名だった。普段の姿は戦いを好まないクールで温厚な美男子なのだが、戦意に駆られるとたちまち醜悪な怪物に豹変し、敵も味方も見境なく魔槍ゲイ・ボルグを振り翳す破壊の鬼と化すらしい。
とはいえ、この話も酒場で居合わせた吟遊詩人からの受け売りである。だが、これだけ野を越え山を越え語り継がれて噂話が大きくなってしまえば、虚構も事実に成り代わってしまう。
「しばらくは、穏やかな日々が続きますかね」
そのアルスターの勇者が倒れたとなれば、二国間の争いに勝負はあったのではないだろうか。
「一介の家畜商としては、生産した食糧が高値で飛ぶように売れるから、ずっと戦争していてもらっても構わなかったんだがね」
こういうことを躊躇いもせずに言える潔さが、オコナー氏をデズモンド家直属の農商会長たらしめている所以なのだろう、と私は思う。
「嫌ですよ。マンスターの兵士まで巻き込まれたら、ひとたまりもありません」
私はなかなか呑み込めない米粉パンを咀嚼しながら、もごもごと言い返した。
「神は戦闘狂だからな……。戦争は嫌いかい?」
「……好きではありません」
私が吐き捨てると、オコナー氏は無言でひとつ頷いた。
それから、この米粉は太平洋に浮かぶ極東の島国との交易で輸入された品らしいだとか、発情した雄山羊がお尻めがけて突進してきただとか、体調を崩していた酒場の店主が復活しただとか、今朝の魚市場ではニシンが腐るほど大量に出回っていただとか、アルスターの英雄とコノハトの魔女にまつわる嘘か実か判然としない都市伝説だとか、いつもの業務連絡を交えた何の気ない雑談をしながら、私たちは朝食をとった。
「よし、僕は一足先に畑仕事を始めるとしよう。リアン、君のパンはもうひとつある。急がなくていいから、食べ終わったら母屋へ来て、親愛なる寝坊助どもを叩き起こしてくれ」
「承知しました」
「本読みに明け暮れるのも結構なことだが、人間はある事柄を知ると、それを知らない者に対してしばしば傲慢な態度をとるようになる。ひとたび知識を得たら、その使い方にまで気を配る精神をお忘れなきよう、努、心得ておきたまえ」
「はい、クランさん」
私がバスケットの中に残された最後の米粉パンを掴むと、オコナー氏はポットとバスケットを回収して立ち上がり、軽やかな足取りで丘の斜面を下っていった。
「信用に欠ける相手に真の名を明かしてはいけない」と「自分より身長の高い異邦人から薦められた本には目を通してはいけない」という二つの誓約に、私の躰は縛られている。
これらの禁忌を犯せば私は呪われてしまうし、しかと守り通しさえすれば神からの恩恵を受け続けられる。
ということになっているのだが、いまひとつ、神秘的な霊力がこの身に宿っている実感はない。それに、呪われると言っても、具体的にどんな災いが振りかかるのかは想像もつかない。けれど、眠る際に現れる“神域”に招待されるたびに、そこに座する地母神ダヌから祝福はされているため、恐らく私は誓約を遵守できているのだろうと思われる。
七年に亘るコノハトとアルスターの戦争を経て、アルスターの勇者が死んだ。
悲劇の発端は、たしか、アルスターに住む牛飼いが所有していたとある名牛をコノハトの女王が欲しがったことがきっかけだったはずだ。
「もう……、勘弁してほしいな」
言葉が声となって、溜息と共に口から洩れ出た。
そんなくだらない諍いがここまで大きくなり、結果として、アルスターの民たちは英雄を失ってしまったのだ。
クー・フーリンには少し期待していた。
強大な力を持ちながら、自らは戦争を好まない半神。彼が存在しさえすれば、人々も諍いを止すのではないか。そんなふうに思えるほど、彼の存在は偉大だった。
神々の多くは、新たに創造した“神域”なる空間へ転移し、人類の蔓延る地上から痕跡も残さず姿を消してしまった。この事の重大さに、少しでも勘付いて危機感を覚えている人類はどれほどいるのだろうか。
寝ぼけ眼で草を食む山羊たちと同じような眼で朝日を眺めながら、もさもさと米粉パンの欠片を咀嚼し、私は人類の行く末を憂いた。
その時だった。
「美味そうなパンだな」
不意に、背後から声がした。
生まれるよりもずっと前から、私はその声をよく知っていた。振り返って、その姿を認めると、泣きそうになった。
「……ダヌ様」
丘の頂に、マンスターの地上を統べる大いなる母、女神ダヌが立っていた。
「地上の空気に身を置いて、随分と久しいな。人の世はどうだ、リアン?」
ダヌの声がふわりと躰の輪郭を撫で、私の精神は思わず浮足立った。
「諍いが止みません、ダヌ様」
「ああ、聞き及んでおる。ルーの息子が死んだとな」
ダヌは風に耳を澄ますように目を閉じると、ひとつ空気を吸って吐き、それからゆっくりと、丘の頂から降りてきた。
一歩ずつ近づいてくる一柱の女神を、私はただ呆然と眺めていた。
「美しい風景だと思わんか」
紅葉に染まる遠方のダグザ山を一望して、ダヌは呟いた。
「はい」
「この山を少し越えた先で、それはそれは大勢の民が血を流しているらしい。どうだ、にわかに信じ難いだろう」
「……はい。しかも、そのきっかけが、ただの一頭の牛を巡ってのことだったと伺っております」
「おやおや、随分と呆れておるな。怒りも湧いてこんか」
目前まで迫り来たダヌに、私の躰は片膝を立てて自然と跪いた。
「……神の御前で誠に恐縮ですが、人類には……、失望せざるを得ません」
私が息を震わせると、ダヌは秋晴れのように涼しい声をあげて、はらはらと高らかに笑った。
私は女神ダヌに米粉パンを差し出した。
ダヌは嫋やかに腕を伸ばして受け取り、それを半分に割くと、そのうちの片割れを私に返した。
私が片割れを再び受け取ると、あろうことか、ダヌは私の隣に腰を下ろした。
ダヌはパンを口の中に放り込むと、舌の上で転がすように二、三度ほど咀嚼して呑んだ。そして、ほっと一呼吸置くと、再び鼻から息を吸って口を開いた。
「これは美味だな」
その一言が出るまでに大いなる母が見せた所作の、その一瞬一瞬が、私の眼前に在ってはならないと思えるほど絶世で儚い光景であった。
「極東の島国から回ってきた米から作ったと、クランさんは言っていました」
平然を装って、私は再びダグザ山の方角へ向き直った。
「極東にも人類がいるのか」
「ええ……。もう、地上には人類が犇めいております。いずれ、雲の上も海の底も蝕み始めるでしょう。それでも足りなければ、最悪、“神域”にまで、手をかけるかもしれません」
私は膝を抱えて憂いを吐露した。
「なぜ、そこまでして増えたいのだ?」
ダヌが問う。
「増えたくなくても、増えてしまうのです」
「であれば、人口を抑制する装置を創ればよかろう。科学とやらには、それはできんのか?」
「……恐らく、可能です」
「それで、一人ひとりが窮屈に感じぬ程度の数まで減らすのだ」
「それができないから、困っているのです」
「……解らんな。他の生き物を見てみよ。それができていないのは、この世で人類だけだぞ。パンを分けて、片割れを譲るのと、何が違うのだ?」
ダヌは思い悩むように深く呼吸する。
「……他の者よりも、大きな欠片を食べたいのです」
自分の口から吐き出される言葉に、私は心底絶望していた。
生命と大地は有限である。無限に命を配置できるようには設計されていない。だから、争いが起こらないように領土を均等に分け合って、天災を考慮しながら、快適な場所で快適な人数を保って生死を回していけば問題は起こらないはずである。
「生まれ持った自身の肉体が愛おしいのだな?」
私利私欲に塗れた人間の醜悪な本音を見透かすように、また慈しむように、ダヌは目を細めて如才なく微笑む。
「……あるいは、死は恐ろしいものだ、と肉体に思い込ませている無意識が、自動的に生存本能を駆り立てているのかもしれません」
「リアンは、この世界でずっと生きていたいのか?」
「……いいえ、永遠は苦痛です。でも、まだ死にたくはない、この瞬間は生き延びていたい、という思いを抱かせる何かが、この世界にはあります」
パン。
乳。
紅葉。
涼風。
汽笛。
戦争。
英雄。
私欲。
愛憎。
仲間。
伝承。
未来。
神。
上辺を飾る言葉の奥底にある、核心的な何か。一言で「これ」とは断言できない、言葉程度のものでは到底及ばない、途方もなく絶大で恐ろしい何か。今日、すでに私は、目が覚めてから数えきれないほど、その何かに「まだ死にたくはない」と思わされている。
「科学は神に成り代わり得ると思うか、リアン?」
女神ダヌの問いに、私は即座にかぶりを振った。
「科学に神が務まるか、だなんて、思い上がりも甚だしい蒙昧な愚案です」
「そうか? 科学を上手く駆使すれば、神域ならぬ“人域”と呼べる理想郷を創造することも夢ではなかろう。肉体と意識を乖離させて、肉体は棄て、意識だけを“人域”へと移すのだ。さすれば、意識が生きていると思い込み続ける限り人類は死なないし、数奇な災いに苦しみ喘ぐこともなくなる。その状態まで科学の精度を極めれば、それは一種の“神”と称しても良いのではないか?」
「悪いご冗談は止してください。実体への執着を失ったら、生命は滅んだも同然です」
そんなことを言っておきながら、私は胸の内に、予感めいたものを抱き始めていた。人類ならやりかねないーーーそんな不穏な臭いが、脳裏で渦巻いているのを感じた。
「またそんな世迷言を。すぐに慣れるであろうに」
人間の本性を弄ぶように、ダヌが嗤う。
「……」
私が口を噤んで項垂れると、ダヌは丸まった私の背を優しく撫でた。たったそれだけのことで、どうしようもなく、躰の底から涙が溢れ出てしまうのだった。
「美味なパンであったな」
私は口の中で舌をもごもごと蠢かせて、パンを味を思い出した。
「はい」
「美しい風景であるな」
私は顔を上げて、秋色に染まる山々と、その上に浮かぶ温かな陽の光を眺めた。
「はい」
「そなたの育てている山羊も、美味そうに草を食んでおるな」
私は眼前に群れる山羊に視線を移した。
「はい」
「諍いに巻き込まれたくはないな」
私はアルスターとコノハトの戦争を想った。
「……はい」
「でも、限りが有る以上、失いたくなければ争わねばならんな」
私は英雄クー・フーリンのことを考えた。
「……はい」
「力の使い道を誤る者ばかりだな」
私は行き過ぎた科学の成れの果てを思い描いた。
「……はい」
「生命の美しさに……、心が震えてしまうな」
その声にハッとして、私は静かに、ダヌの顔を見上げた。
女神の流した一滴の灯火が、はらりと虚空を舞い、大地の中心へと吸い込まれていく。その、今にも風に紛れて消えてしまいそうな泣き顔に、まだ死にたくはないと、そう強く思わされてしまうのであった。