〈改革〉を諦めた後の余生 -映画『室井慎次 敗れざる者』『室井慎次 生き続ける者』
映画『室井慎次 生き続ける者』『室井慎次 敗れざる者』(以下、「『室井慎次』2部作」)を観てきた。これで、「『踊る』プロジェクト最新作」としての2部作が完結した。
率直に言えば、私は『室井慎次』2部作に対して否定的な評価をしている。『踊る大捜査線』シリーズのいちファンとして、こんな続編は見たくなかった、というのが正直な気持ちだ。
何が『室井慎次』を生んだのか
この記事で考えたいのは、『室井慎次』2部作はなぜ、室井慎次の「現役世代としての仕事」ではなく、「家族と過ごす余生」に照射する物語になったのか、という問題だ。
結論から言えば、『室井慎次』2部作は、室井慎次の、「〈改革〉を諦めた後の余生」の物語である。そして、「〈改革〉を諦めた後の余生」を送る室井慎次は、この国とそこに暮らす人々の暗喩である。
『踊る大捜査線』シリーズは、〈改革〉を信じられた頃の物語だった。一方、『室井慎次』2部作は、〈改革〉を信じられなくなった時代の物語である。
(※以下、映画『室井慎次 生き続ける者』『室井慎次 敗れざる者』に関するネタバレを含みます。)
『踊る大捜査線』の〈改革〉と『室井慎次』の余生
〈改革〉を信じられた時代の『踊る大捜査線』シリーズ
『踊る』シリーズを動かしてきたのは〈改革〉への希望だった。
刑事ドラマに憧れて警察官になるも、手続きや階級を重んじる「お役所」文化に失望する現場の刑事・青島俊作。志をもって働くも、出世や保身しか頭にない同僚や上層部にうんざりする警察官僚・室井慎次。TVドラマの諸事件を通し、ふたりは次第に交わりを深めていく。
TVドラマの終盤、ふたりはある「約束」を交わす。内向きの論理と慣習に縛られていた警察組織を、現場の刑事が「正しい」ことをできる組織にしていく。そのために、青島は現場で、室井は上で、それぞれの仕事をしていく。映画版の物語を通して、その「約束」は少しずつ叶っていく、かに見えた。
『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!!』(2003年)は興行収入173.5億円を記録する大ヒットとなった。この数字は日本の実写映画史上最高の売り上げであり、未だ破られていない。
この映画の終盤、犯人グループを追い詰めた青島はこう言う。「リーダーが優秀なら、組織も悪くない」と。
組織の中で生きる者は、組織のあり方に縛られながらも、同時に組織を内側から変えていくことができる。組織の中に信念ある者がいれば、やがて組織は変わっていく。青島と室井の「約束」は、『踊る』シリーズを動かしていた物語であった。
そして、この物語の前提にあるのは、組織や制度のあり方を変えれば状況は良くなるはずだという、〈改革〉への期待である。『踊る』シリーズのメガヒットは、〈改革〉を信じられた時代の気分でもあった。別の言い方をすれば、「仕事」で〈改革〉を成し遂げられる可能性を信じられた時代の産物だった。
〈改革〉を信じられなくなった時代の『室井慎次』2部作
しかし、『室井慎次』2部作に、〈改革〉への希望はない。
「あの男との約束を果たせなかった--」という衝撃の一言から、『室井慎次』2部作は始まる。室井は警察の組織改革に数年取り組むも挫折し、定年前に警察を退職した。東北の田舎に古民家を買い、犯罪被害者・加害者の子どもを里親として育てている。
室井は「約束」を果たせなかったから警察を辞めた。そして、犯罪と捜査により発生する犠牲(被害者・加害者の子どもが親と離れてしまう)を償うため、そうした子どもを里親として育てているという。血のつながりはないが、そうしてできた擬似的な「家族」を室井は楽しんでいるようである。
〈改革〉が完全に潰えたわけではない。警察官僚として共に働いてきた新城
が、現場の刑事と本庁の警察官僚が連携するモデルを構築し、室井の志を継ごうとしている。
だが、その動きに室井が関わる様子はない。室井は「仕事」をするのではなく、擬似的な「家族」と束の間の幸せを築き、そしてあっけなく消えていく。
〈改革〉の夢は果たせなかった。そして、年もとった。だから、もう「仕事」で〈改革〉を成し遂げることは諦め、「家族」と共に余生を過ごそう。「仕事」で何かを成すことはもうできなくても、「家族」とささやかな幸せを築ければ、それでいい。
『室井慎次』2部作は、そうした、〈改革〉を諦めた後の余生のような気分に覆われている。
平成の〈改革〉と令和の余生
なぜ、こうなったのか。『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』(2012年)と題し完結したはずの『踊る』シリーズは、なぜ再始動したのか。〈改革〉を信じていたはずの物語は、なぜ〈改革〉を諦めた後の余生を続編として描かなければならなかったのか。
TVシリーズの開始は1997年。『室井慎次』2部作の上映は2024年。この間に、この国では〈改革〉を信じることができなくなったからだ。
平成の政治改革で「正しいこと」を実現すれば、この国は良くなるはずだった。しかし、改革は中途半端に終わった。
「改革」を掲げたポピュリズム政権は、郵政民営化という宿願を達成したところで息切れした。二大政党制が実現したかに見えたが、「政権交代」はわずか3年後に政権再交代を招く結果に終わった。「一強」の長期政権下では様々な不祥事が起こり、それでも政権与党は勝ち続けた。
その結果、どうなったか。少子高齢化の進行、地方の衰退、GDP世界4位など、具体的な問題を列挙するまでもないだろう。
「政権交代」が起きた2009年の衆議院議員選挙の投票率は約69%だった。しかし、野党が「政権交代前夜」と息巻いていた2024年の衆議院議員選挙の投票率は約54%と見込まれている。改革を成せる、という気分は後退している。
国家(政府)だけを責めれば済む問題ではない。
近代の画一性を批判し、「多様」さを広げて躍起になっていた市民は、しかし近代の「大きな物語」に変わる新しい物語を描くことはできなかった。アイデンティティの政治は個別化と分散、その副作用としての分断を深めるばかりで、一向に連帯できる様子はない。
他方、近代に姿形のはっきりしていた敵は、今や国家や諸組織が国境を超えネットワーク化するなかで〈帝国〉へと姿を変え、市民の生活の隅々へと奥深く入り込みながらかつ私たちを苦しめる、ますます倒しにくい敵となっている。
まずい状況なのは明らかだ。しかし、突破口を見出せない。そうしたなかで私たちはいつしか、新しい物語を議論し描くことに疲れてしまった。
働いていると本が読めなくなる。労働に疲れてしまった私たちは、労働に役立つノイズのない情報と、労働を束の間忘れられる甘くて刺激的な娯楽を求め、固い装丁の本に刻み込まれた小さな文字と向き合い古今東西の森羅万象について思索を巡らせることから目を背けてしまった。
目の前の仕事や暮らしに「役に立たない」こと、自分が直接の当事者でないことに想像力を働かせることなど、している余裕はない。
この国を嘆きながらも、この国を飛び出すほどの力もなく、この国を動かすほどの力もない私たちは、自分の損を最小化する方法をちまちまと考えていく。沈みゆくこの国で小市民として生きる私たちは、そういう余生を送っていくことになる。
〈改革〉を成せなかった失意のなか「仕事」を辞め、「家族」とささやかな余生を送る。この2部作における室井慎次の姿は、〈改革〉を諦めた後の余生を送る、この国とそこに暮らす人々の暗喩だ。
「一昔前のヒット作の続編」のジレンマ
「一昔前のヒット作の続編」の難しさがここにある。
ヒット作とは、その時代に生きる多くの人々が「観たい」(聴きたい、読みたいでもいい)と思ったものである。すなわちヒット作は、その時代の気分をある程度反映している。
だが、時が経てば、時代の気分も変わる。当然、ヒット作の条件も変わる。つまり、「一昔前のヒット作の続編」を作った場合、その作品が代表していたかつての時代の気分(A)と、続編を作った今の時代の気分(B)との間にはズレが生じる。
では(B)に合わせればいいのかというと、そうでもない。その作品には、かつてヒットした時に、その時代の気分(A)のもとで成立していた作品のコンセプト(X)があるからだ。
ここで、「一昔前のヒット作の続編」はジレンマに陥る。作品のコンセプト(X)を貫こうとすれば、今の時代の気分(B)に合わない。さりげない1シーンが「炎上」を招くかもしれない。
しかし、今の時代の気分(B)に合わせようとすると、かつてファンに支持されたその作品のコンセプト(X)が崩れる。かつてのヒットの度合いが大きければ大きいほど、続編に対するファンからの期待値も高くなる。
このように、「一昔前のヒット作の続編」は、宿命的にジレンマを抱える。
『室井慎次』2部作は、結果として、今の時代の気分(B)に合わせることを優先させた作品になった。その結果、かつてヒットした時の『踊る』シリーズ(X)のコンセプトは崩れた。ゆえに『室井慎次』2部作における室井慎次は、「仕事」で〈改革〉を成すことを諦め、「家族」とともに静かな余生を送ったのだ。
『室井慎次』が終わった後に
「約束」を果たせず警察を辞め、青島ときりたんぽ鍋をつつくこともなく、あんなにもあっさりとこの世から消えてしまう室井さんなど、観たくなかった。それが、『踊る大捜査線』ファンのひとりとしての、正直な感想である。
しかし、このような形で『踊る』プロジェクトの最新作が作られた、という事実は重い。室井慎次が〈改革〉を諦め消えてしまったこの国で、私たちは生き続けなければならないのだ。