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10代向け『半沢直樹』の痛快さと危うさ ー映画『新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!』

『新米記者トロッ子』という映画を観てきた。この作品には、「藤吉夏鈴の初主演映画」という枠を超えて、観るべき価値がある。そんな思いに駆られて、この記事を書いている。

この作品は、いわば「10代のための『半沢直樹』」だ。
人気ドラマ『半沢直樹』は、銀行員が上司に「倍返し」をし、組織の不祥事を暴く物語である。映画『新米記者トロッ子』は、高校の新聞部員が理事長の不祥事を暴く物語である。
どちらの物語も、観た人に「気に食わない目上の人を倒した気になってスカッとする」作用をもたらす。『新米記者トロッ子』は「10代のための『半沢直樹』」であると言えよう。

この作品は「痛快な青春エンタメ映画」である。特に終盤、生徒数名が教職員に情報戦を仕掛け、理事長の不祥事をメディア・観衆の前で告発するに至る展開・演出は、疾走感にあふれ見応えがあった。
大学生が講義の課題として出した企画書を原案とし、新進気鋭の若手数名を主要キャストに登用するなど、挑戦的な試みも見られた映画である。

一方で、この「痛快」な物語には危うさもある。生徒と教職員の権力関係を背景とする不正義が、沼原という戯画的な悪役に集約されすぎている。
抽象化して言えば、この物語の単純な痛快さは、「構造」のもたらす問題を特定の「人物」の問題に矮小化することによってもたらされている。


作中において、学園の理事長・沼原栄作は次のような不正をしていた。

・学園施設の建設を手がける西園寺建設とズブズブの関係を保つため、社長の娘かつ文芸部部長である西園寺茉莉を優遇した。
・全国高校生文芸コンクールの審査員に金銭を渡し、自校の生徒が金賞を取るように便宜を図った。
・文才ある生徒に圧力をかけ、西園寺茉莉のゴーストライターをさせた。
・新聞部が自らの不祥事を暴きそうになると、部長・副部長に圧力をかけ部を解散に追い込んだ。
・学園への寄付金を横領していた。

とまあ、時代劇のお代官様も驚く不正のオンパレードである。そんな沼原の巨悪を新聞部が明るみにし、沼原に社会的制裁が加えられたところで、物語は終幕を迎える。

示唆的だったのは、自らの不祥事を暴こうとする新聞部に対し、沼原が部長の杉原かさね・副部長の恩田春菜にそれぞれ圧力をかけるシーンである。

端的に言えば、沼原は学籍と進路を道具にしてかさねと春菜を脅した。
かさねには報道から手を引かなければ春菜と1年生部員・所結衣も含めて退学にするぞと迫り、春菜には新聞部の情報を沼原に流せば志望大学への特別推薦を用意すると懐柔した。
学籍と進路は生徒にとって一大事であるため、生徒は学校(教員)に逆らいにくい。この物語に限らず、学校(教員)と生徒の力関係をめぐる普遍的な構造である。

ここでひとつの補助線を引きたい。社会学者・熊本博之が指摘する現代日本社会の構造、「報奨金化する社会」である。

報奨とは、ある人の功労や善行などに報い、それをさらに奨励することである。そして奨励は主にお金によってなされる。これが報奨金だ。つまりはインセンティブである。
ここでのポイントは、何が功労で、何が善行に当たるのかを決めるのは、報奨金を出す側だということである。そのため、報奨金をもらうためには出す側の意向に沿わなければならない。つまり報奨金は、人々を自発的に意向に沿わせることのできる、便利なツールなのである。
(中略)
だが報奨金にはもう1つ、大事な側面がある。それは、「功労」や「善行」を為そうとしない者には、一円たりとももたらされないということだ。それは報奨金である限り、当たり前のことである。
だが、誰かからもらうお金が、すべて報奨金のような特徴を持つようになれば、話は変わってくる。なぜなら、お金をもらうことで、お金を出す側への貢献を義務づけられてしまい、しかも貢献ができないものはお金をもらうことができなくなってしまうからだ。これが「当たり前」になった社会のことを、「報奨金化した社会」と名付けよう。この報奨金化が、日本社会で近年、急速に高まっている。

熊本博之「現代日本社会を読み解くための『報奨金化』というツール」より引用。強調は引用者

沼原が当初かさねに提案した、新聞部に「公認」と「予算」を与えるという話は、まさに「報奨金化する社会」の構造と重なる。一言でいえば「金を出すから言うことを聞け」という話だ。

その後沼原が学籍と進路を道具にしてかさねと春菜を脅すのも、「金」の話でこそないものの、背後には「報奨(金)」の構造がある。「もらうためには出す側の意向に沿わなければならない」点において。

学校(教職員)にとって「良い」行いをした生徒には、高い内申点や進学・就職にあたっての推薦といった「報奨」が与えられる。一方で、学校(教職員)にとって「悪い」行いをした生徒には、「報奨」は与えられず、停学や退学といった「制裁」を処される。
こうした「報奨」や「制裁」に「金」の要素は薄い。しかし、生徒と学校(教職員)の関係性において、「何が功労で、何が善行に当たるのかを決めるのは、(中略)出す側」であるため、「もらうためには出す側の意向に沿わなければなら」ず、その結果学籍や進路が「人々を自発的に意向に沿わせることのできる、便利なツール」である、という点は同じである。
学校(教職員)と生徒の間には、「報奨」を媒介とした力関係がある。この構造のもとでは、生徒は学校や教員に従属的な態度を(少なくとも表面的には)とらざるを得ない。

もちろん、これはあくまで「構造」の話である。現場の教職員は善意で生徒と接しているはずだ。しかし同時に、学校の規範に一見従順に適応している生徒の行動は本当に「主体的」なものなのだろうか。学籍や進路を政治の道具とし専横を極める理事長や保身に走る教員は、この物語の中だけの架空の存在だと信じたいが、どうだろうか。

作中では、先に述べた脅迫と懐柔の結果、新聞部は廃部に追い込まれ、理事長の不祥事はもみ消されそうになる。そうしたなか所結衣は退学覚悟で立ち上がり、かさねや春菜、西園寺茉莉らと共謀し、学園の闇を世間に暴くことに成功する。

観る人がこの展開にスカッとしてしまうのは、10代は当事者として、20代以上は元生徒として、学校に抑圧されている(された)無念を晴らされたような気になれるからだろう。

しかし、だ。沼原が新聞部(員)を追い込んだ手段――学籍と進路を道具に、生徒を学校や教員に従わせる政治――自体は、「報奨」を媒介とした学校と生徒の力関係に起因するものである。沼原個人を叩いて追放したところで、この構造は変わらない。

不正義を倒したいのなら、不正義を生み出す構造を変えなければならない。人物を叩いて入れ替えて満足し、構造を変えないならば、新たな人物のもと同じ不正義が再生産されるだけだ。
だが実際には往々にして、不正義を見かけたとき、その不正義と結びついた人物を叩いて満足してしまう。複雑で変えにくい構造へのアプローチを考えるよりも、「こいつさえいなくなれば」と考えた方が単純でスッキリできるからだ。


物語のラストでは、騒動に関わった主要な生徒たちのその後がモノローグで語られる。そう、10代は忙しいのだ。進学や就職にまつわる多くの意思決定をし、進路を実現するための行動をしなければならない。自分自身の生活や進路に関わりの薄いこと、ましてや学籍や進路を投げうつようなリスクのあることに手を出している暇などない。所とかさねが必死につかんだスクープの記事には目もくれず抜き打ち試験の告知に焦る、その他大勢の名もなき生徒たちのように。

しかしそうして、人が入れ替わり物語は忘れられ、問題の根底にある構造は温存され、「何をやっても変わらない」という諦めがじわじわと広がっていくのではないか。10代の投票率が低いのも、生徒会活動が形骸化しているのも、決して当事者の10代ばかりのせいではないだろう。

わかりやすい正義がわかりやすい悪を倒す。「10代のための『半沢直樹』」とも言える痛快な青春エンタメを提供したこの物語は、同時のその痛快さに潜む危うさを映し出した。

許されざる不正義を目の当たりにした。しかし自分は生活を人質に取られており、不正義に反抗することは自らの生活を危うくしかねない。そうしたときに、私たちはどのような行動をとるのか。
西園寺のように自らの欺瞞を懺悔できるか。かさねのように捨て身の覚悟で正義を貫けるか。春奈のように二重スパイとして暗躍する「賢い」振る舞いをするか。所のように、自らの正義に周囲を巻き込めるか。それとも――沈黙し結果として賛意を示す「サイレントマジョリティー」になるのか。
真実を描くためそれぞれの選択をした登場人物たちに、観る私たちもまた問いかけられている。


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