東浩紀 訂正する力
要約と感想
・訂正する力とは、現在の視点から過去を再度検証し、「実は〇〇だった」という形で過去を再発見し、新たな物語をつくる力のこと。
・東浩紀が、万博について中止できないのかといっていたので、万博に対して「訂正する力」が有効なのではないかという仮定のもと読んだ。
・そんなことよりもっと大事な話だったと同時に万博を「崩壊に向かっていく出来事」として、加速主義の中での現象として捉え「訂正する力」をもとに考察する価値はありそう。
第1章要約
・訂正する力は、革命や災害を契機としたリセットにより社会を再構築するということの非有効性、(革命後結局独裁が生まれて王政復古したフランス革命、共産党の独裁となったロシア革命、3.11で何も変わらなかった日本)を説いている。
日本の場合は明治維新や敗戦の様な劇的出来事が今の日本には必要だという考え(加速主義)に対してもそうでない再構築の方法として訂正する力を提案している。
第2章要約
・日常の中でのコミニケーションは絶えず訂正であり、この訂正の連続によって、社会は変化しつづけ成り立っているとしている。これを子供が鬼ごっこをしているとおもったら、かくれんぼになりかくれんぼだと思っていたらまた違う遊びになるという例を挙げて説明している。
・また、現代における作家性はまさにこの訂正する力によりうまれるとしている。なぜなら上記のような人間的訂正は、非連続的であるので、言語の連続性から予測を導き出すAIの予測範疇外の出来事であるかとしている。
(例:将棋をやっていたと思ったら途中であきて将棋の盤をテーブルにして飯を食べ始めるとか)
第3章要約
・この「実は〇〇だった」の集合が自己であり、これにより他者とは交換不可能な存在とするとしている。このように他者の「実は〇〇だった」を発見することから人と人との関係が生まれるとしている。またその様に互いに訂正し続ける関係をもつ他者同士のつながりが「親密な公共性」を生むとした。
・また、この「親密な公共性」を持った集団が、無数に存在する社会を
「喧噪のある社会」として、東浩紀は肯定的にとらえている。
第4章要約
4章では、3章で個人とその周りの小さな集団における訂正する力がどのように作用しているかを示した。4章では、これを国家という巨大な集団に対して応用している。
リセット思考があることにより、日本は明治以前の近世と明治以降の近代をつなぐことができなくなっているとして、明治維新もリセットを意味する革命でなく、あくまで復古(訂正)であるとして、近世と近代を地続きに捉えている。
・ここに、京都学派が「近代の超克」と言って「近代というぼくらの目の上にある巨大な壁でも乗り越えなくちゃいけない」ともう明らかにマインドからして超えられそうもない感じでなく、日本のそれまでの歴史の中で何度も繰り返し現れてきた問題の形式なので特別なことではないつまり、「そんな壁はそもそもない」という考えに読み替えている。
・以上より、「訂正する力」により、国家という概念は国防という面ではどうしても必要な一方で、現代の個人と個人が国家と無関係につながるという事象と相いれない状況になっていることに対して、個人と個人のつながることの価値と国家の価値の分断を回避している。
所感
・改修は「訂正する建築」と言える。
・共同性をどのように考えるかは、宮台真司や内藤廣も主張している。
・東浩紀が、宮台真司や内藤廣と異なる点は、東浩紀は共同性を国家のあり方にも拡大している点である。
補足
・喧噪のある国家についてはnewspicksの落合陽一と東浩紀の対談に取り上げられている。
https://www.youtube.com/watch?v=oBMNDxor1K0
「近代の超克」の解説は下記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B