手紙を書こう。
われが自己の現実を語るのではなく、
現実そのものが自己を語るのである。
煩悩において欠くることのない自己が真実の心になるということは、他者の真実の心が自己に届くからでなければならぬ。
そのとき自己の真実は顕わになる。
三木清
8月かぁ。
遅まきながら、昨日、撮りためてあるテレビ番組からNHKのドキュメント72時間「文房具店 この手紙をあなたに」を観た。
銀座の伊東屋で手紙用品(封筒や便箋やカードなど)を探し、買う方を追っていた。
わたしはとんでもない筆無精だ。
大学の頃には年賀状を出すのをやめていた。
もしかしたら、昨日書いた記憶のあまり確かでない高校生の頃にはもしかしたら年賀状を出さなくなっていたのかもしれない。
それでも、時々、気が向いて、人にプレゼントをする際に、店が付けてくれたカードに一言添えることも有る。
で、それをとても喜んでもらえたりする事も知らないでもない。
でも、手紙って、何を書けばいいの?
字が汚いし、誤字脱字が多いし、だいたい、書いている途中で字を間違えて、せっかくのカードを台無しにしてしまう。
シールを貼ったり、修正液を使ったりすればいいのだろうが、そんなものもなく、二重線で消したら何をどう間違えたかがバレてしまい恥ずかしいし、そこで、ぐちゃぐちゃに塗りつぶす。
とても人様に渡せるような代物でなくなり、「や〜めた」で捨てて終えたこともしばしば。
でも、手紙というものには憧れは抱いている。
もらえば嬉しい。
だから自分でも書ければな、と、たまに無謀にも手を出し、撃沈する。
いまから暑中見舞いや残暑見舞いの手紙を書く元気はないので、次の正月には久々に年賀状を出してみようかな、なんて、ちょっとだけ考えてはいる。
人が何かをしてくれて、それに対して、オレはできてねぇし、できねぇなぁ〜、と思わされ、気付かされ、ちょっとだけやる気を出させてくれる、自分もダメ元でまた挑戦してみようかなぁ〜、なんて気にさせてくれるひとつが、わたしにとっては手紙かもしれないな。
自己の現実、なんて大層なことではないけど、ま、現実には違わないのかな。
人の心が解れてない、そんな自分に気付かされるし。
「プレゼントも嬉しかったけど、手紙、すごく嬉しかった」
そんな言葉を聴いてきたのになぁ〜〜〜。
面倒くさいからいいや、モノだけわたしゃ。
で、終えてしまう。
よろしくないね😅
で、今思い出したのだけど、手紙を出さにゃならんかったのを思い出した!
会議の案内、出さなきゃ(´Д`)ハァ…
これも手紙に成るんかな?
ま、出だしの数行は挨拶程度のことを書くし手紙かな。
でも、パソで打って、A4の紙にプリンターで印刷して、同じものを人数分用意して送る、は、手紙じゃないか?
ともかく、早いとこやらにゃ〜。
手紙のテレビを観たお陰で、仕事を思い出した。
いや、早く作って出さにゃならんて分かってはいたけど、面倒くさくて、気づかないふりをしていた自分を見せつけられた。
案内作ったり、出したり、やりたくないなぁ〜。
事務仕事って、ほんときらいだなぁ〜。
これも自己の現実?